⑩ 小公女子の片恋相手 ~せいらの語り~

 栞町から二駅先は、終点の奥付っていう駅なの。

 毎週月曜日と金曜日、あたしはここで降りて、すぐ目の前の大きなビルに向かう。

 これはあたしの通う塾。

 引越してきて、これでも近くなったのよ。

 引越の時に、塾はかえって近くなるから変える必要ないって母さんに言われたとき、ものすごくほっとしたのを覚えてる。

 実績のある超有名塾だから母さんとしてもずっと通ってほしいんだって。

 あたしも、学校は変わってもこの塾だけは続けてたいって思ってた。

 勉強熱心って褒めてくれる?

 ありがとう。

 でも、違うの。

 あたしが塾を絶対に辞めたくない理由。

 それは、ここに、好きな人がいるからなのです。

 五時から始まる一限は、一番楽しみな、社会科の授業。

 チャイムが鳴ると同時にその人はドアを開けて教室に入って来た。

 黒檀のように黒い髪がさらさら揺れてる。暖房のきつくかかった建物の中でシャツの袖をまくって、ネクタイも緩めてる。

「じゃ始めっか。号令頼む」

 そう。

 あたしの好きな人は、塾で社会科を教えてる神谷先生。

 大学生なんだ。

 号令が終わると、彼はこんなことを言いだした。

「世間はもうすぐバレンタインとか言ってるけど、塾にチョコはもってきちゃいかんからな。女子はあげるなら外で」

 えーっという女子からの声。

「『えー』じゃない。そっちのが告白も成功率高いと思うけどな。誰も見てないからこそムードも高まるってもんだろ」

 うそ。

 どうしよう。

 だってあたしがあげようと思ってたのは……。

 あたしの心の声をなぞるように、一人の女子が言った。

「えーっ、かみやんにあげる場合は?」

「それは」

 かみやんっていうのは彼のあだ名なんだ。みんなこう呼んでる。

 うっ。さっそくのライバル現れたり。他の女の子もやっぱり狙ってるんだわ。

 かみやんは真剣な目で言った。

「特例として、許す」

 ほっ……としてる場合じゃないわ。教室から、なんだよそれーと言う笑い声と一緒に、女子のひそかな歓声が上がってるもの。

 そうなの。彼はモテるんだから。前途多難な片恋です。

「じゃ前置き終わり。さっそくだけど、クイズ。これ誰だー」

 かみやんは絵がプリントアウトされた大きな紙をホワイトボードに貼った。

 描かれていたのは目の細い、長い黒髪で十二単を着た女の人だった。

 お調子者の男子が言ったの。

「かみやんの恋人ー」

 かみやんは……真面目な顔して考え込む動作をした。

「うーん、この人が彼女ねぇ。なくはないけど、でもそれもちょっとな」

 すかさず女子からの声。

「こういう顔は、先生のタイプじゃないのー?」

 あたしも思わず身を乗り出す。

「沙織、微妙に失礼な事を言うな」

 教室から笑いが起きる。

「当時はこういう目が細くて、髪が長い、下膨れぎみの人は超美人だったんだぜ」

 すかさず男子たちがもてはやす。

「美人だって。やっぱ恋人だ」

 わいわい盛り上がる中、一人の男子が言ったんだ。

「かみやんには泉先生がいるだろ」

 その瞬間、ぎゅって心がわしづかみにされた。

 泉先生は、この塾の国語の先生。

 肩より少し長い髪をふんわりお嬢様しばりにしたおしゃれで優しい先生。

 だけど、秋にかみやんと婚約したってすごい噂なの。

 かみやんは慌てもせず、軽くその男子に目をやって、

「ほら、今はこの人のことだ」

 否定しないわ……。

「美人でばりばり仕事もできる。オレなんかよりめちゃ稼ぐ。平安時代のキャリアウーマン。そこまで完璧な女の人も、男としてはどうかなと思う。これだけのヒントでわかりそうなのは」

 やっぱり、噂は本当なの?

 かみやん、泉先生と婚約したの……?

「せいら、わかるか」

 囁くように名前を呼ばれてあたし、飛び上がりそう。

 超特急で息整えて、立ち上がる。

「紫式部。中宮彰子に仕えた『源氏物語』の作者です」

 授業が全部終わると、帰るのは10時過ぎになる。

 いったん教室を出たあたしは出口の前で一回転。

 もういちど教室に向かった。

 みんな帰ったあとの教室には彼が――かみやんがいて、黒板を消していた。

「よう、せいら。どうした?」

「ちょっと、忘れ物しちゃって」

 あたしは座っていた席から物を取り出すふりをする。

「へぇ、珍しいな。いつもしっかりしてるせいらが」

「う、うん。どうしたのかな、学校も新しくなったしちょっと疲れてんのかも」

 あたしは適当にごまかす。

 ほんとは忘れ物なんてしてない。

 彼と話す、口実。

 なのに彼は、黒板にあてた黒板消しをとめて、振り返った。

「新しい学校で友達、できたか」

 少し心配そうな目にきゅんと胸の奥が熱くなる。

「うん。大好きな友達が二人も。話してて楽しいの」

「前の学校とは授業のスピードも違うから、なにかと大変だろ」

 どんっとあたしは胸をたたく。

「だーいじょぶ! そんなんでつまずくあたしじゃないわ」

「そうすか。これは失礼」

 かみやんはちょっと眉尻を下げて笑った。

「けどあんまり頑張り過ぎんなよ。新しい環境ってのは大人にだってこたえるんだからな」

「あ……」

 やだ。

 胸がどきどきいってるのが聞こえる。

「とはいえ、授業じゃいつも頑張ってくれてるお前には助けられてるよ。さっきもサンキューな」

 大人の男の人にしてまあるくて、ちょっとかわいいかんじの目が見つめてくる。

 こういうこと言われるといつも、あたしはたまらなくなる。

 思い切って、あたしは口に出した。

「かみやん、質問があるんだけど」

「おぅ。今日のところか?」

 あたしは意を決した。

「かみやんはどんな女の人が好き?」

 ずずっと、かみやんの革靴が床を滑る。

「せいら。どうした? お前そういうキャラだっけか」

「授業で男子たちが言うのとは違うの。……真面目に訊いてるのよ」

「んーとそうだな」

 髪をかいて、かみやんは考えてくれた。

「基本的にどんな人とでも話すかな。そのほうが楽しいだろ」

 なんという、無難な答え。

 きらっと光った授業をする人のせりふとは思えないわ。

「まず楽しいことが大事。オレはそういう気楽な性質だから」

「わかった。もういいわよ」

 あたしは手を上げてその場を後にしようとした。

 好きなタイプも教えてくれないなんて、わかってはいたけど、やっぱり彼にとってあたしは子どもなのね……。

 だけど。

「だからさ」

 踵を返した、その目の端で見たの。

 いじけ気味のあたしに、彼がいたづらっぽく笑ったのを。

「みんながわいわいはしゃいでる教室で、一人黙ってまっすぐ前見てくる子なんか、ちょっとはっとするよな」

 ……え?

 ちょっと。

 それって誰のこと――?

 みんながはしゃいでる教室で。

 一人黙って。

 前を見て。

「じゃぁな。気を付けて帰れよ」

 我に返ったときはもう、かみやんと一緒に教室を出ていたの。

 先生たちのいる事務室に向かって、彼の背中が遠ざかって行った。

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