㉗ 大切な心

 劇が、終わった。

 拍手が鳴り響く中、マーティンに連れられてお父さんが舞台の中央にもう一度出てくる。

「では本野社長、開会宣言の続きをお願いします」

 わたしはそのお父さんの顔を見て、ぎゅっと手を握る。

 お父さん、苦しそう。

「……わたしたちは、ケストナー氏の本を……本を……」

 そこにほんとうに続くはずだった言葉を口の中で呟く。

 皆さんの友達としてほしいのです。

「夢のお父さんは今戦ってるんだね」

 いつの間にか、座席から舞台袖まで来ていたももちゃんがとなりで言う。

「本を燃やせって気持ちと、友達にしたい気持ち。二つの気持ちのあいだで」

 わたしは頷いた。

 お父さん、がんばれ……!

 胸から火の粉が一粒、もう一粒漏れると、お父さんはその場に膝をついた。

 お父さん、優しくなってくれたの……?

 わたしたち、勝ったんだ……!

 お父さんが、ふいに笑った。

「夢未、おいで」

 え……?

 今までとは違う、優しい顏だった。

「また一緒に暮らそう。そのために、夢未の心が必要なんだ」

 わたしの心……?

 また本を焼きはじめる周りの人々を必死で止めながら、ケストナーおじさんがわたしを呼び止める。

「夢ちゃん、だめだ、心を渡してはいけない!」

 客席の方で、炎を近づけられながら懸命に「きらめきの湖」をふりまいてるモンゴメリさんが叫ぶ。

「夢未! ヴァランシーを飲むの! 勇気を出して。お父様にほんとうの気持ちを告げるのよ」

 わたしははっとした。

 そうだ。

 心を渡したら、お父さんを殴った人たちと同じ、本を焼く人になっちゃう。

 ジュースを、早く。

 わたしは首にさげた青い小瓶を手にとった。

 でも。

 瓶のフタを開けようとしたとき、素早く白い手が伸びて来て。

 バッキーン!

 瓶を叩き割ったの。

 わたしはびっくりして、白い手の持ち主を見た。

 ヴァランシーを割ったのは、お母さんだった。

「お父さんの言うことをききなさい、夢未」

 お母さん。

 長い髪を束ねて、白い病院着を着てる。

 どうして?

 お母さんはそれには答えなかった。

「夢未に言いたいことがあるの」

 お母さんはそっとわたしのほっぺたに手をあてた。その手は意外だけど、あたたかかった。

「このあいだアパートであったこと。あれは夢未がいけなかったのよ。いつもお父さんの言うことをきくいい子だったのに、いきなり叫んで刃向ったりして。いけない子ですよ」

 え……?

「さ、謝って。あなたの心をお父さんに渡して、任せて」

 わたしが悪い?

 わたしがいけなかったから殴られたの?

 混乱するわたしにお母さんはさらに続ける。

「お父さんは夢未のお父さんだから、逆らってはいけないの。世の中には上下関係ってものがあって、上の人には逆らったらだめなのよ。でもね、そのかわりいいこともあるの。言うことをきいていれば上の人に守ってもらえる。お母さんとお父さんが、夢未のこと、守ってあげるからね。だから夢未はなにも悩まなくていいの。安心して暮らしていいのよ。ぜんぶ、お父さんの言うとおりにして。またみんなでもとのように暮らしましょう」

 ……そうだ。

 胸の中の強い流れが消えて、安心に代わる。

 この感覚は何度も味わってた。

 今日こそ言おうと思って強い気持ちの流れの中にいると、その気持ちを折って、いつの間にか相手の流れに身を任せてる。

 そういうことだったんだ。

 会場の人たちが、悪役に心を進んで渡したのも。

 守ってもらえるから。

 自分で考えなくていいから。

 それが正しいんだ。

 お父さんとお母さんの言うこと、きかなきゃ。

 いつもみたく。

 ごめんなさいって言えば、許してもらえる。

 またみんなで暮らせる。

 これでいいんだ。

 いつもそうやってきたじゃない。

「お母さんを困らせないで。夢未」

 そう言うお母さんの、その目の中に燃える火を見たけど、もう、どうでもよかった。

「わたし、お父さんとお母さんと暮らす。お父さん、刃向ったりして、ごめんなさい」

 そう言ってお父さんとお母さんの手をとった――。

 お父さんが頭を撫でてくれる。

「夢未はいい子だ」

 あれ。

 心を渡したはずなのに、なんで涙が出てくるの。

 いらない。

 もう心なんていらない。

 なにも考えないで、お父さんとお母さんと暮らすんだもん。

「自分に都合のいい子、ですか」

 どきりとして、わたしは声のしたほうを見た。

 わたしの心は確かにまだどこかにあって、ずっと聞きたかった声に反応してる。

 そこに星崎さんが立っていた。

 見たことないくらい、怒った顔してる。

 星崎さんの目は黒く、炎が宿ってなかった。

 その肩には、黄色くほのかに光る本の形の星が光ってた。

 お父さんがまた、怖い顔になった。 

「お前か。夢未の心を持っているのは」

 あの黄色い本の星は、ブーフシュテルン。あれが、わたしの心?

 首を傾げていると、答えるように星崎さんがかすかに笑った。

「夢ちゃんから預かった本の隙間から出てきたんだ。この光がここまで道案内してくれたよ」

 あっ。

 本を預けたとき。

 あのとき、彼に一緒に心も預けちゃったってこと?

「なぜだ。こんな小娘、お前にはなんの役にも立たないはずだ」

 星崎さんがまた厳しい顏で言った。

「夢ちゃんのお父さん、これが欲しいですか。役に立つとか、立たないとか、そういう見かたすら忘れさせてくれる。夢ちゃんのそういう希少な心が」

 ……あ……!

 お父さんの目が一瞬、優しくなった。

「希少な心。オレが永遠に失ったものだ」

 お父さんの周りを包む炎が少しずつ弱まっていく。

 希少って、珍しくて高価なものって意味だよね。

 こんなときなのに、たまらない気持ちになる。

 わたし、星崎さんといたかったんだ。

 それがわたしの選んだ、気持ち。

 全部誰かの言うとおりにするんじゃなくて。

 自分で決めたかった。

 本を読んで、いろいろなことを感じて。

 思ったことや、言いたいことが言えるようになりたかった。

「お父さん、やっぱり、わたし」

 お父さんをもう一度見て、ぞっとした。

 そのいっぱいに開かれた目も、今開かれた口も、怒りでいっぱいだった。

「害悪だ。役に立つかどうかで測れないものなんて、社会の発展には足手まといだ! 燃やさなくては」

 周りの人みんなも、危険だとか、燃やせとか叫んで、わたしに向かってくる。

 やだ、やめて。こないで。

 そう思うのに足がすくんで声が出ない。

 がしっと両側から腕を掴まれる。

 お父さんが上に向けて手をかざすと、そこに大きな炎の塊ができる。

 塊はあっという間に天井まで届くくらいに大きくなる。

 お父さんがわたしに向かってそれを投げつけた。

「夢っ!!」

 ももちゃんの叫びが聞こえた。

 わたしは、ぎゅっと目を閉じた。

 

 わたしは目を閉じながら、あれと思った。

 身体がちっとも熱くも苦しくもならない。

「どういうこと! ケストナー」

 モンゴメリさんの、切羽詰った声が聞こえる。

「あれは本焼く炎でしょう。人を燃やす力はないはずよね!?」

 そうだったんだ。

 わたし、助かったの……?

 溜息まじりのケストナーおじさんの声が続ける。

「あくまで、最初のうちはね。炎は本を焼き続けて力を得ると、人も焼くようになる。ある偉大な文豪が見つけ出した、事実だ」

 え……?

 炎が誰かを焼いてる?

 そっと、目を開ける。

 目の前に、大きな炎が燃えていた。

 その中に、誰かいる。

 炎に包まれながら苦しんでいるのは……。

 わたしは悲鳴も出なかった。

 その前に足が動いた。

 炎に飛び込もうとした体を押さえられる。

「離してっ」

 わたしを押さえているのは、本焼く炎にとりつかれた人たち、じゃなかった。

「僕のロッテちゃん。行ってはいけない」

 ケストナーおじさんが優しく、でも強い力でわたしを後ろから抱きすくめていた。

「でも、星崎さんがっ、このままじゃ」

「一度人を捕えた本焼く炎はその命を燃やし尽くすまでその人を離さない」

 わたしは今度こそ叫んだ。

「星崎さんっ」

「今近づいたら、君まで炎に燃やされてしまう。そうならないように、彼は身を呈したんだよ」

 初めて聞くケストナーおじさんの厳しい言葉の中に大切なことが含まれているのに、わたしは気がついた。

 星崎さん、わざと炎の前に出て行ったの?

 わたしを、かばってくれたってこと……?

 わたしはそう思ってはじめて、すぐ側が明るく光ってることに気がついたんだ。

 ケストナーおじさんがそっと黄色い星を差し出す。

「彼が置いていった。君の心だ」

 炎の中の星崎さんが倒れると、用は済んだとでも言うように炎は小さくなった。

 最後の仕上げのように小さな炎が彼の胸を覆ってる。

 ケストナーおじさんがわたしを抱きしめる手をゆっくりと離してくれる。

 わたしは、力が入らないよろよろの足で、それでも倒れた星崎さんに駆け寄った。


 「星崎さんっ」

 顔や身体のあちこちに焦げた跡がある。

 星崎さんはうっすらと目を開いた。

「……確かに、返したからね、夢ちゃんの心」

 困ったように笑う。

「ごめんね。……もう、力になれないみたいだ」

 待って。

 そんなこと言わないで。

「夢ちゃんのこと、ちゃんと助けるつもりだったけど、悔しいな」

 星崎さん、もう喋らないで。

 悲しいこと言わないで……!

 顔を包もうとした手をぎゅっと引き寄せられる。

「急いで、ここから逃げるんだよ。……いいね」

 不思議なほど、優しく笑って。

 わたしの手から、そっと右手を離して。

 星崎さんは目を閉じた。

「……やだ」

 わたしは小さく呟いた。

 なんで、好きな人を死なせなきゃならないの。

 本を焼きたいなんて、人を思い通りにしたいなんてそんな考えのために?

 こんなのやだ。

 やだよっ。

「やだーーっ」

 わたしの声が会場中に響き渡る。

 わたしはお父さんに向かってつかつかと歩いていった。

「お父さんのばかっ」

 今までお腹の中に押し込こめてたことが、次々に溢れてきた。

「お父さんの周りには人が自分の上か下にしかいない。自分の役に立つかどうかでしかお互いを見てないんだ」

 となりには誰もいない。

 本が教えてくれること。

 誰かを自分の道具にするのとは逆に、自分を誰かの道具にすること。

 そういう大好きな誰かがいること。

 それをお父さんは手放しちゃったんだ。

「そんなことするために、お父さんはがんばってきたの?」

 お父さんは答えない。

 抜け殻のように遠くを見つめてる。

 それでも、かまわない。

 わたしは息を大きく吸った。

「わたしの心はお父さんにはあげない。わたしのものだよ。ほかの誰かにわたしのことを決められたり、思い通りになんかなりたくない。わたしは星崎さんと一緒にいる。ずっと、いるっ」

 星崎さんは動かない。

 言い直すのが、すごく、悔しかった。

「ずっと、いたかった」

 この人は本が導いてくれた、大好きな人なのに。

「星崎さん、起きてっ。結婚なんてしてくれなくていいです。起きて、ただそこにいて。お願い――」

 同時にじゃっぶーんってものすごい音がしたけど関係なく、わたしは泣き続けた。

 会場の両壁に、いっぱいに水があふれ出してる。

「夢」

 ももちゃんが近くにきて、肩をたたいてくれる。

 わたしのこと、慰めてくれるんだね。

 わかってる。でも今はそっとしておいて。

 そう言おうとしたら、

「見て!」

 ももちゃんは一言そう言って、舞台の真ん中を指さした。

 え。

 えぇぇぇっ!?

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