㉘ 気配りよりも大切なこと
そこには、大きな滝があった。
高い天井から舞台に向かって流れてくる、幾筋もの太い水は、シャンデリアの光を浴びてきらきら光ってる。
水の中にところどころに、小さな島が浮かんでて、人が座っている。
古今東西、いろんな国の服を着た人たちが。
その中で、茶色いコートの女の人がふわりと舞台の上に降り立った。
「あなたは……?」
顔立ちからして、外国の人かな。
近くで見ると、短く切った髪の毛がきれいな亜麻色をしてる。
「デラよ。『賢者の贈り物』の本のなかで、クリスマスに夫に送るものがなにもないって悲しんでいたのはわたし」
あぁ、そっか。
髪を切って売ったお金で、旦那さんにクリスマスプレゼントを買ってあげた、優しい女の人……!
その後ろから、滝から降りてきたんだろう、ハワイのプルメリアのお花を耳の横につけた女の子がぴょこんと顔を出した。
「コクアです。『南海千一夜物語』の。恋人のケアウェが病気にかかったときはとても悲しかった」
え!
この子が、悪魔の小瓶を買ったケアウェと恋に落ちる、コクア!
コクアの前に、また別の女の人が降り立った。
「本の中のわたしたちの人生に共鳴して寄り添ってくれた夢ちゃんに今度はわたしたちが共鳴したの」
髪を後ろでまとめて、サイドをカールさせてる。
この人、『青い城』の映画で見た女の人に似てる……?
「ヴァランシーよ。こんにちは」
やっぱり!
ヴァランシーさんは人差し指を立てた。
「今から物語を展開させるわ」
「ヴァランシー。わたしのかわいい娘。これはどういうこと?」
モンゴメリさんが言う。
そっか。
ヴァランシーさんはモンゴメリさんが生み出した人物だもんね。
「夢未の叫びに、わずかに残っていたブーフシュテルンが結集したの。そして、物語の中のきれいな涙を持つ登場人物たちを呼びだした」
両手を広げて、ヴァランシーさんは滝を示した。
「誰かを想う、本の登場人物の涙。そして、それを読んで感銘を受けて流された人々の涙。これは、みんなのきれいな涙なんです。プレゼントを好きな人のために用意することができない、『賢者の贈り物』の夫婦の涙。不治の病にかかった恋人のために流される『南海千一夜物語』のヒロインの涙。クリスマス休暇に家族に会えなくて泣く少年の涙。それを読んで心からかわいそうに思う女の子の涙も入ってます」
そう言われるとももちゃんとマーティンが目を見合わせて、二人とも恥ずかしそうに逸らした。
もちろんここには、はじめて好きになった人を想う、ヴァランシーさんの涙も入ってるよね。
「夢。あなたの、彼を想う涙もね」
そっか……!
これは、そんな、みんなの涙。
かけがえのない文学の宝物そのものなんだ!
「それが、ナミダガラの滝の正体なの」
滝の水は会場床に落ち続け、どんどん溜まって行く。
でも足元は全然冷たくない。
お父さんが、全身その泉に浸かって、目を開けた。
火の形はもうそこにない。
ただつかれたような顔でぼうっと目の前を見てる。
となりでお母さんも黒く戻った目をぱちくりさせてた。
周りの人たちの目からも火が消えて、机や椅子が乱れて本が乱暴に積みあげられてることにおどろいてる。
会場の係の人たちはあわてて、乱れた会場を片づけはじめた。
モンゴメリさんが言った。
「本焼く炎にとりつかれていたときのことは、みんな忘れているようね」
ケストナーおじさんはウインクした。
「ナミダガラの滝には怒りを押し流す作用もあるんだ。ただご安心を。こちらは人の体を濡らしたり、おぼれさせることは決してないよ。ただ、本焼く炎を消し、そして――おっと。このさきを言うのは野暮かな」
水に浸かった人たちの目の中の炎が消えて、元の黒い目に戻って、みんな不思議そうに周りを見てる。
透明な水に浸かった星崎さんの火傷の跡が消えていく。
身体の全部をナミダガラの滝が包んだとき、星崎さんはゆっくりと目を開いたの。
起きあがって、わたしの方へ歩いてきてくれる。
「夢ちゃんの声、聞こえたよ」
えっ。
ショック。
あの絶叫、聞こえてたのっ?
「びっくりしたな。いつもみんなに気を遣って、自分の言葉は後回しだった夢ちゃんが、あんな大きな声出すなんて」
うう。
恥ずかしい。
星崎さんにだけは聞かれたくなかったなぁ。
「ごめんなさい。わたし、臆病で。だからあんなことになるまで言えなくて」
「オレは、夢ちゃんは大丈夫だって最初から思ってだけどね」
つかれた顏なのに、すごくきれいに、星崎さんは片目を瞑った。
「言った通りだったでしょ。女の子の心が外に出てしまうとき、奇跡が起きるって」
え……?
わたしはようやく気づいた。
ナミダガラの滝のことを相談した時、星崎さんは気づいてたんだ。
主人公の女の子っていうのがわたしのことだって。
きれいな心を持った、女の子。
あのときの彼の言葉を心の中でもう一度聴いて、わたしはぎゅっと自分の肩を抱いた。
わたしなんて、誰にも好きになってもらえないんだって思ってたけど。
今は自分のこと、抱きしめたい気分だよ。
「言いたいこと、やっと言ってくれたね。よかった」
わたしは思いっきり、星崎さんの腕に抱き着いた。
わたしは舞台の端に歩いて行った。
そこでうずくまっている人に話しかける。
「お父さん、ありがとう。ぼろぼろになりながら、みんなに本を届けてくれてありがとう」
お父さんは顔を上げた。
泣いていた。
ぼろぼろの顔をして。
「夢未……」
なんにも言えないみたい。
いいんだ。
お父さんはつらかったんだ。
そうだよね。
本当は優しい人なのに、つらくて心を鎧で覆うしかなかったんだよね。
「……これから、一緒に暮らしてくれるか」
びっくりした。
お父さんとお母さんとまたみんなで仲良く暮らす。
それは、わたしがずっと願ってたことだった。
だけど、わたしは首を横にふった。
「それはできない」
はっきりと言った。
「お父さんの心がもう少し治るまで、わたしは安心してお父さんと暮らせない」
心で、そっと唱える。
ちゃんと言うんだ。わたしの思ってることを。
「もう絶対、殴ったりしないで。怒鳴るのもだめだからね」
萎れたように、お父さんはうなずいた。
「夢未。お父さんを、許してくれるか」
「……っ」
うん。いいよって、言いたかった。
わたしだって、前のように戻りたい。
でも、やっぱりまだ、怖かったんだ。
一度、大切なわたしの人生をとられようとした記憶がどうしても消えてくれない。
答えられずにいると、代わりに後ろから誰かが答えていた。
「夢ちゃんが許しても、僕は許しません」
星崎さん……!
「このあいだのようなことは二度とさせません」
舞台袖から、ピンクのスカートが翻って、
「あたしも、許せそうにないです」
ももちゃんが登場した。
「僕もです。公正な大人になってもらうまでは」
とその後ろからマーティン。
「今度同じことしたらオレが相手になるぜ」
とマッツ。小さなウリーもそのとなりでうなずいている。
「みんな。どうだろう。もうこの辺で勘弁してあげたら」
ケストナーおじさんの言葉にわたしは大きくうなずいた。
みんなから睨まれて、お父さん、ちょっとかわいそう。
でも、不思議だった。
お父さんは、弱々しくだけど、幸せそうに、笑ったんだ。
そうして一言、言った。
「夢未、友達できたじゃないか」
そうして、お父さんが弱々しく、わたしに背を向けて歩き出した、その瞬間。
わたしは見たんだ。
きれいな羅針盤やコイン、小瓶を乗せた、小さな小さな、ピンク紫の船が、お父さんを追いかけていくのを。
メルヒェンガルテンに流れついていた、『夢の船』だ……!
わたしはたぶん、どこかで知っていたんだと思う。
あれはお父さんの心だって。
「祈りましょう、夢未。彼のために」
モンゴメリさんが、優しく手を組み合わせてくれている。
「はい」
わたしもそっと、手を組んで、お祈りした。
行くさきで待っていたお母さんに支えられて、ゆっくりと歩いて行く、あの背中に。
あの船が、いつかまた、追いつけますように。
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