⑮ 初恋は本の中の人 ~もも叶の語り~

 みりたちはさすがにあたしが落ちこんでるのを察して、一人にしてくれた。

 またやっちゃった。

 夕暮れ時、あたしは帯紙おびがみ公園の噴水に座った。

 あんまり夢が心配で心のままを話して、傷つけちゃった。

 どうしよう……。

「そうね。さっきのはちょっと言いすぎだわ」

 声がしたのは、ポケットの中の手鏡からだ。

「誰もがあんたみたいに心のままに生きられるわけじゃないんだから」

 その一言に、ずーんと大きな石を心に乗っけられたような気がして、あたしは手鏡を開けて声の主に言い返した。

「あたしだって、心のままに生きてるときばっかじゃないよ!」

 最後のほう、涙声が混じってやばい、みっともなって思ったけど、いったん出た言葉はもう止まらない。

「みんなあたしを明るいとか強いとか言うけど、そんなのぜんぶ嘘なんだから!」

 普段より、ずっと奥から言葉が出た気がした。

「知ってるわ」

 オルコットさんの声が、した。

「あんたが、ほんとはものすごく悩んじゃう子だってことくらい、知ってるわよ。あたしだって何人もの女の子を書いてきた作家だからね。……でも、今あんたを慰める役は、あたしじゃないみたいね」

 え?

 もう一度鏡を見たけど、そこにはただ、涙のあとがあるだけだった。

 あたしは右手に顔を埋めた。

 なにやってんだろ。

 オルコットさんにまでやつあたりして。

 誰かが噴水のとなりに腰かけた。

「落ち込んでる理由を訊いてもいいかな」

 そう言ってくれるのをずっと待ってたみたいに言葉が出た。

「けんか、しちゃったの」

 ぽろぽろって言葉と涙が溢れてくる。

「その子、お父さんに殴られたの。あたし知ってる。前にも、夢が怪我して学校に来たことがあって、あんまり心配だったから、どうしたのって問いつめたことがあったんだ。たまにアパートにくるお父さんに、もう何度も殴られてるの。お母さんも、お父さんに怯えるばっかでなにもしてくれないんだ」

 夢がほっぺたを腫らしてくるたびに、あたしもすごく心が痛かった。

 つらい。

 つらいよ。

「夢、自分が人に好きになってもらえない子だから、お父さんとお母さんも嫌いになったんだって言ってた。なに言ってんだろ。ばかだよね……」

 ばかがつくくらい、夢は優しい。

 どんなに傷つけられても、誰も責めないで、自分ばっかり責める。

「なんでよ。なんであんないい子が殴られて悲しまなきゃならないの。もうやだ。あたしだってこんなところやだ。どっかに行っちゃいたいよ」

 そう言い切った言葉につられるように、涙があとからあとから出てくる。最悪なことにしゃっくりまで。

 横から彼は頭を撫でてくれた。

「絶望するのはまだ早いと思う」

 絶望、か。

 相変わらずむずかしい言葉遣うなぁ。

「その子には、君がいる。いつも元気ではっきり意見を言って、強いけど、ほんとは同じくらい傷つきやすくて、優しい、君が」

 あたしはその子の顔を見た。

 こげ茶色の髪にアールグレイの瞳。洋風造りのきれいな顔があたしを見返す。

「あたし、そんないい子じゃないよ。はっきり意見を言うようになったのだって、一年生のとき、大人しくしてたらいじめられたからだもん。初めての学校で誰にも話しかけらんなくて、一人でいたってだけなのに、クラスの一部の子たちがあたしのこと笑ったり、意地悪で物を隠したりした」

 それから、まずは傷つけられないように、笑顔で振る舞おうってことばっかり考えて。話し方だって考えた。みんなが興味あることを一生懸命聞いていっぱいリアクションするようにすれば、相手も喜んで話してくれるって研究して。

「それで友達は増えたけど……っ」

 すごくつかれちゃうときがあるんだよ。

 ほんとは夢みたいに、そんなことよりさきに、人を傷つけないようにって考える子になりたかったのに。

 あたしは人の顔色ばっか見てる、ずるい子なんだ。

 たまにそう考えて、すごくつらくなる。

「嫌われないことより、大切なことがある」

 はっとして、あたしは顔を上げた。

「君はそれをちゃんと知ってる」

 男の子の茶色い髪がさらさらって、冬の風にゆれてる。

「理不尽なことを言われたら年上でも戦うこと。それから、親友の恋を応援すること。そういう君を、ずっと見てきた」

 あたしは自分の膝を見た。顔が熱くて、頭が重い。

「なんで、あたしなんかのために、優しくしてくれるの? 会ってまだちょっとしか経ってないのに」

 前に、怒鳴ってるおじさんから助けてくれた彼は少し切なそうに、微笑んだ。

「そんなこと言うなよ。僕たちは、もうとっくに会ってる。忘れたの? もも叶」

 あたしははっとした。

 それはよく考えたら、ずっと前にも聞いたことのある声だと思った。

 あの本を読んだとき、頭の中でずっと鳴っていた声だ。

 落ち着いて、優等生っぽくて、そして、公正なんだ。

「僕がみっともなく泣いてるとき、君は一緒に泣いてくれたから」

 そうだった。

 それは、クリスマスの夜だった。

 友達の前ではいつもしっかり者でリーダーシップを発揮する、ドイツの寄宿学校にいる彼が、家が貧しくて、クリスマス休暇に家族に会う帰り賃を送ってもらえずに一人、泣いているとき、あたしも泣いた。大好きな家族に会えないなんて、そんなのつらすぎるって思ったんだ。なにより、彼にそんな気持ちになってほしくなかった。

 あたし、彼が好きなんだ。

 ずっとずっと好きだった。

 『飛ぶ教室』の物語の中で出会ったときから。

 こんな子が物語の中だけじゃなく、ほんとうにいたらって思ってた。

 本の中の人を好きになっちゃったなんて誰にも言えなくて、ずっと、この気持ちがないふりをしてた。

「マーティン……」

 彼は少しだけ困ったように笑った。

「君には、しばらく正体を明かしたくなかった」

 あたしにはその理由がわかった。

「本の中に、いつか帰らなきゃならないから?」

 マーティンはそれには答えなかった。

「君が心を痛めてるのは、親友の子のためだって知って、なんとか助けたくて、本の中から飛び出してきたんだ」

「……ありがとう、マーティン」

 ぎゅっとあたしは彼を抱きしめた。

 彼はびっくりしたみたいだったけど、あたしの腕をぽんぽんってたたいてくれた。

 これで元気百倍だ!

「君が元気になったなら、対策を練り直す必要があるね」

 うん。

 考えを伝えようと、あたしは抱き着いたまま、彼の顔を見た。

「あたし、まずね」

「わかってる」

 マーティンは微笑んだ。

「まずは弱ってる君の親友だ」

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