⑯ すてきな皮肉

 気がついたら、駅ビルに足が向いていた。

 星降る書店の中に入った途端、足がふらふらして、しゃがみこんだ。

 どうしよう。動けない。

 ずっとずっとこのままなのかなって思ったとき、目の前でぱたんと音がした。

 目だけ前に向けると、小さな本が落ちてた。

『子どもと子どもの本のために』。

「おかしいな。ケストナーの文庫がどうしてエントランス付近に落ちてるんだろう」

 その声を聴いたとき、不思議な気持ちになったの。

 この声を待ってたような。

 でも、この声だけは聞きたくなかったような。

「夢ちゃん」

 やっぱり見つけてくれた。

 やっぱり見つかっちゃった。

 星崎さんは、わたしのすぐ目の前まできて、かがみこんでわたしの肩に手を置いた。

「ダメじゃないか、調子悪くなったなら、誰かに言わないと」

 泣きたくなった。

 この人の前でもっと酷い顔になるわけにはいかないのに、でも声聞いたらすごく泣きたくなったんだ。

「夢ちゃん?」

 いつもより少し厳しく、星崎さんはわたしの手を引いた。

「顔、見せて」

 いやだって思った。

 だから、その胸に飛び込んだ。

 大声で泣いたら、お店の人にも迷惑だけど。

 声がまんすれば、泣いてもいいよね。

 今だけ。

「助けて」

 迷惑かけちゃいけない。

 わがまま言ったらいけない。

 その考えを突き破って、声が自然に出た。

「助けて、星崎さん」


 星崎さんに抱えあげられて、星降る書店の事務室のソファに降ろされた。

 事務室に入るのははじめてだけど、世界文学会議が開かれるあのファンタジックな空間と同じお店の一角と思えない、地味な風景。

 でも不思議とほっとした。

 星崎さんが、いつもここでお仕事してるんだって思うからかな。

 わたしが寝ているソファのさきに机が一つ。お仕事の紙の束や本、それからパソコンが乗っている。

 星崎さんとお店の人たちが、ほっぺや腕、足にできた傷を冷やして包帯や湿布をしてくれた。

 星崎さんがお店の人たちに、みんなありがとう、あとはオレが病院連れてくから、もうあがっていいよって伝えると、お店の人たちは、お菓子や飴をくれ慰めてくれて、帰って行った。

 最後の人が出て行って扉が閉まると、星崎さんからそれまでの笑顔が消えた。

 怒ったように溜息をついて、わたしの寝ているソファの前に座り込む。

「なにがあったの」

 わたしは、アパートであったことを話した。

 帰ったらお母さんとお父さんがけんかしてたこと。

 それからお父さんに殴られたこと。

 『南海千一夜物語』を、お父さんが引き裂いたことは、言えなかった。

 星崎さんはまるで、自分がめちゃくちゃに殴られたみたいに、つらそうな顔をして聴いていた。

 ぜんぶ話し終わると、あのね、夢ちゃん、と言って短く、溜息をついた。

「小さい子が、そういう我慢をしたらいけない。いけないんだ」

 星崎さんはしばらく黙った。

 そして、言った。

「参ったな」

 心の底から、途方に暮れてるって感じだった。

「君を大切にしてくれる大人が一人くらいいないもんかな」

 なんで、そんなこと言うのか不思議だった。

 だって。

「います。わたしなんかでも、とっても大切にしてくれる人、いるんです」

 それでも、星崎さんはまだ怒ったような顔をやめない。

「じゃぁその人に、言っといてくれないかな。夢ちゃんのことをもっと気をつけて見ているように。目を離すなって」

 わたしはぼうっとする頭で、こんな場面、どこかで見たことある、と思った。

 そうだ。

 今の星崎さんは、ケストナーおじさんの『飛ぶ教室』に出てくる、寄宿学校の先生の一人といっしょなんだ。

 子ども同士のけんかで息子さんが一日人質にされていたことに気づかなかった自分のことを、クロイツカム先生は、教室のみんなの前で叱るんだ。学校では自分の生徒でもある息子さんに言うの。君のお父さんに、もっとよく息子に気をつけているように伝えてくれって。

 紛れもない皮肉だけど、こんなにすてきな皮肉ってあるんだなって思った。わたしの大好きな場面なんだ。

「ごめんなさい。わたしのせいで、お仕事なのに、こんな」

「そんなふうに、大人の都合なんて、気にするもんじゃないよ。君みたいな、楽しいことにもっとたくさん恵まれていいはずの子が」

「星崎さん……?」 

 あ。だめだ。

 わたしを想ってなにか言ってくれてる気がするけど、気が遠くなってぜんぜん頭に入ってこない。声がちょっぴり怒ったふうだってことばっかり気になっちゃう。

「ケストナーが危険な状態だったのに、それでも祖国に留まった理由。オレ考えたんだけど」

 でも、その言葉だけはくっきり心に残った。

「一緒に痛みたかったんじゃないかな」

 心に空いた穴の中にすっぽり入ってくるように感じたんだ。

「夢ちゃん、忘れないでほしい。君が痛いとき、その痛みを感じたいって思う大人も世の中にいるんだ。だから、そういう大人に、つらいときはつらいってちゃんと言わなきゃだめだ」

 それはわたしの、欲しかった言葉だったからかもしれない。

「オレは今猛烈に、殴りたいよ。夢ちゃんがこんなになるまで気づかなかった、オレのことをね」

 あぁ、よかった。

 やっぱり星崎さんだって思った。

 怒っても、すてきなままの大人。

 自分のこと、責めるくらい優しくて。

『青い城』の映画で見たヴァランシーさんの表情が浮かぶ。

『わたしと、結婚してくださらない』

 モンゴメリさんの手で生まれた主人公のその人は、男の人にプロポーズしちゃうんだ。決然とした強い女の人。でも同時に恋する女の人の、とってもきれいな顔だった。 

 わたしは胸にさがっている瓶を首からとって――足元に置いた。

 ヴァランシーさんのパワーは今日は、借りない。

 物語は直接なにかに働きかける力を貸してくれるものじゃない。

 でもただ、そこにあるだけで力が湧いてくる。

 ときには、なにかを成し遂げる力もくれる。

 そういう大きなものなんだ。

「好きです」

 わたし、どんな顔をしているだろう。

「わたし、星崎さんが、好きです」

 ちょっぴりでも、星崎さんの目にヴァランシーさんのように、きれいに映ってたらいいな。

 ……でも無理かぁ。今、目は腫れて、唇は切れて、ひっどい顔だもんね。

 おどろいた星崎さんの目を見たのを最後にわたしはなにもわからなくなった。

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