⑤ 本の星屑・ブーフシュテルン
『名作の部屋』の外に出てみて、わたしたちはえっと声をあげてしまったの。
そこにあるはずの、いっぱいの本棚がない。
『名作の部屋』自体は紫のカーテンで覆われた、鉛筆型のガラスの空間として、相変わらずそこに立っているんだけど。
その外は満点の星空の宇宙の中に浮いてる、とても広い庭園だった。
『名作の部屋』のほかにも、そこここに不思議な形のガラスでできた空間がある。
足元がまぶしい感じがして、見てみると、透明に光る百合やすずらん、ききょうが咲いていた。
「あれ」
わたしはあることに気がついた。
光が漏れているのはすずらんの白く透き通った花びらの中からだった。
薄紫の光が辺りを照らしてるんだ。
かがみこんでよく見てみると、白い花びらに包まれた光の正体は、四角いとても小さな――本みたいだった。
よく見ると、えんじ色の表紙に茶色の背表紙がちゃんとついてる。
ももちゃんがうへっと声を出した。
「すごいきれい。でもこんなちっさい本、読むどころか、ページをめくることすら一苦労じゃん。これじゃもはやブローチだね」
ページをめくるとき指を置く表紙の左端――日記帳なら、鍵がついてる部分ね――に、星形のボタンのようなものがついてる。
紫の光はそこから強く出てたんだ。
かわいくて、きれいだけど、これ、なんなんだろう?
ケストナーおじさんが、わたしたちの心の声を読んだかのように答えた。
「それは、ブーフシュテルン。本の星屑さ」
本の星屑。
すてきな響き、とわたしたちは顔を見合わせた。
「優れた文学がこの世に誕生すると、夜空に星が一つ生まれる。物語の命をつかさどるものさ。古代からブーフシュテルンは宇宙にたくさん降り積もってきた。作家が亡くなっても、本を介して星屑は人々の心を照らし続ける。その光があるときいっぱいになって、ここ星降る書店に、ブーフシュテルンがたくさんつまった宇宙の一角がつながったようなんだ。ここを僕らはドイツ語で物語の庭『メルヒェンガルテン』と呼んでいる。この一角は地球上の常識ではなく、本の世界の常道で成り立っているんだ。だから星屑の光の力をもってすれば、もう死んでいる僕らのような作家たちでもこうして伝記から抜け出して存在し、生きている君たちと話をすることができる。一冊の本が著者の死後も生きた言葉を人々に語りかけ、その心を照らすようにね」
「そんなことって」
ももちゃんは信じられないというように口を開いた。
「……わかる気がする」
わたしはゆっくりと頷いた。
「本には魔法に近い力があるんだよ」
「マジ?」
わたしは頷いた。
「だってそうでしょ。本の文章は実際にはない場所を描き出すし、本を開けば、もう今はいない人たちとお話だってできるんだよ」
「う~ん、そう言われると」
上からかすかな汽笛の音がしてももちゃんの言葉を遮った。顔をあげてみてみると水色に澄み渡った鉄道が夜空を右から左へ横切っていった。
これって……。
わたしが次に目を止めたのは、すぐそこにあった看板だった。
隣にあるひときわ大きなゆりの花びらの中からやっぱり淡いオレンジンのブーフシュテルンが看板を照らしている。
そこにはこう書いてあった。
十二月の庭園のテーマ 銀河鉄道の夜
久しぶりに、アジアの小国日本の作品世界をとり入れてみました。
本の星と、光の粒と、いっぱいの切なさに溢れた美しい夜をお楽しみください。
庭園の管理人、またの名をみどりの指の庭師
今空を横切った鉄道には、あのお話に出てくる二人の男の子、ジョバンニとカンパネルラが乗ってるのかな。
「わたしたちも、あんな鉄道で旅したいよね」
どこまでも。
ここじゃない、銀河へ。
ケストナーおじさんは、きっと行けるだろう、って言ってくれた。
想像力の翼をもった君たちなら、どこへでもって。
「夢。やっぱり……」
「ももちゃん? なにか言った?」
「なんでもない」
ももちゃんがあわてて打ち消した言葉も気にならなかった。
それくらい、わたしは本の光が溢れるこの空間に見とれていたんだ。
見とれながら、庭園の端まで歩いていく。
「夢。待ってよ」
ももちゃんが呼んでるけど、浮かんでる庭園の奥の景色が気になって仕方なかったんだ。
その先は崖になっていて、下に透き通った青紫の海が揺れていた。星屑が浮かんでいて、とってもきれい。
「ケストナーおじさん、あれなに……?」
その底に、沈んでいる船があったの。
びっくりしたのは、そこに乗っているものぜんぶがすっごくきれいでロマンチックだったこと。
宝箱の中の宝石、おしゃれな羅針盤、きれいな色の砂が入った砂時計。
でもどれも壊れたり、ばらばらになったりして海に沈んでる。
「あれは、ブーフシュテルンがかつて照らしていた夢の船だよ」
「夢の船?」
「本に感動する心が創りだした夢は、ブーフシュテルンも応援して照らすんだ。しかしその夢が難破すると、メルヒェンガルテンに流れ着く」
「じゃ、あれは、叶わなかった、誰かの夢なの?」
ももちゃんの問いかけに、ケストナーおじさんは深刻な顔でうなずいた。
「あの船は十年前ここに流れ着いた。ほんとうならこの辺りの住人が片付けるんだけど、あれは特に美しくて、惜しい夢だから、このままにしておこうってことになったんだ」
船にたくさん積まれた宝物が寂しげに、虹色の光を投げかけていた。
それがあんまりきれいで、わたしは心配になった。
この夢の持ち主だった人は、自分の心のきれいなところをごっそり、海に投げ捨てちゃったんじゃないかな。
「あの船、もとの持ち主のところに帰りたがってる気がする」
助けてって、光りながら言ってる気がするんだ。
「僕もできれば帰してやりたい。でも、難破した船が持ち主のもとへ帰ることは少ない。それにあの船が誰のものなのか、確かめる術すらないんだ」
「そんなの、悲しい」
ももちゃんがぽつりと呟く。
「一緒に、祈ろう」
あたし達はケストナーおじさんに頷いて、目を閉じた。
あの船が無事、持ち主のところへ帰れますように……!
船の中の宝物が、星屑に反射して、お礼を言ってくれてるように、きらきら悲しく光った。
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