④ 星降る文学会議
たまに本に関するイベントをやったりするので、『名作の部屋』の六角形の机の、中心が空洞になってるスペースには、ホワイトボードがある。
こうして見ると、ちょっと変わった会議室みたい。
わたしとももちゃんは応募用紙を机に置いて、まるで競争してるみたいにいそいで席に座る。
「迷うなぁ。なんの本の推薦文を書こう。かわいい女の子たちが出てくる『ふたりのロッテ』かなぁ。主人公が現実にはありえない国をたくさん旅する『五月三十五日』も捨てがたいよねぇ。でもわくわく度で言えば、『エーミールと探偵たち』は外せないし、うーん」
嬉しい悩みだなぁ。
「ねぇ、ももちゃんは迷わないの?」
ちらと横を見ると、えっ。
ももちゃんはもうすでに、用紙の半分を埋めていたんだ。
「ん。あたしもどれも好きだけど、今の気分では一つしかないっていうか」
作品名の欄に『飛ぶ教室』って書いてある。
「あ! やっぱりそれになっちゃう?」
ケストナーの作品の中ではちょうど今の時期、クリスマス時期が舞台の物語『飛ぶ教室』が一番有名なんだ。
まず書き出しから心をくすぐられる感じがする。
そこには真夏にクリスマス物語を書かなければならないっていう難題に首をひねる作家、ケストナーさん本人が描かれてる。
寄宿学校っていうところに通う、日本で言う中学二年生くらいの男の子たちが、クリスマスの時期に繰り広げる、ちょっとわんぱくな、でもとっても優しい物語なの。
「ももちゃんは、どの場面が一番好き?」
「ふふふ。やっぱり最初かな? マーティンが、ピアノのフタをバタンってしめちゃうところ」
どこの場面のことか、わたしはすぐピンときた。
ギムナジウムっていうドイツの寄宿学校(寝泊まりできる学校のことだよ)の男の子たちが、学校で上演する予定のクリスマス劇の練習をしようと体育館に行くんだけど、そこを上級生たちがひとりじめしてるの。男の子たちはこの時間は自分たちが使用許可をとってるって主張するんだけど、上級生たちは年上に逆らうなって感じで譲らない。
そこで、主人公のマーティンは、一人のピアノを弾いている上級生のところへ行って、そのフタを閉めちゃうの! もちろん、上級生の手はフタに挟まれちゃう。痛そう……。
「年が上だからってなにをしてもいいわけじゃない! ここから出ていってください、今すぐに!」
ももちゃんは本もないのに、マーティンの台詞を気持ちをこめてすらすらと言った。
「うちの学校にもああいう男子がいたら、もっと世の中うまくまわると思うんだけどな」
あはは、とわたしはつい笑っちゃう。
「その後もハラハラドキドキだよね。やっと劇の練習ができると思ったら、一人のクラスメイトが体育館に駆けこんでくるの」
「『みんな、大変だ! 実業学校の生徒に、仲間が一人捕まっちまった!』」
ももちゃん、今度は体育館に駆け込んできた生徒の男の子を演じてる。
そういうわけで、学校対学校のけんかが始まっちゃうの。
けんかの代表は、食いしん坊のマチアス、通称マッツの役目。
男の子たちは見事戦いに勝利する。みんなが喜んでいるとき、ただ一人、小さなウリーだけは浮かない顏をするんだ。みんなが戦っているとき、僕は逃げちゃったんだ、って言って。
「わたし、ウリーの気持ちわかるなぁ。勇気がなくて言いたいことが言えなくて、つらい気持ち」
しみじみしているとももちゃんがぽつんと言った。
「夢は勇気がないんじゃなくて、ちょっと優しすぎるからなぁ」
「そうかなぁ?」
「うん。授業中先生に誰かがひどく怒られると、自分のことみたいにしょげた顔してるじゃん」
あ。
そういえば、そうかも。
誰かが怒鳴られたり笑われたりしてると、なんか悲しくなっちゃうんだ。
どうしてかわからないけど。
「それが夢のいいとこだけどね。人のことにもいちいち傷ついてたらハートがいくつあっても足りないよ。世の中にはいつでもふさわしいときにふさわしい怒りかたができる先生ばっかじゃないんだから、割り切らなきゃ」
うーん。
ももちゃんって大人……。
「ねぇ、夢」
いつの間にか、ももちゃんは鉛筆を置いていた。
「なんで夢は本が好きなの?」
「え」
そう改まって訊かれると。
「うーんそうだなぁ……」
でも、ももちゃんも本好きだよね。
「あたしはね、ミステリーとかラノベみたくすいすい読めちゃうのが好きだったけど、夢がめちゃ勧めるからなんとなく読んでみたら、こういう名作も面白いなって思ったのね。でも夢はなんで、こういうジャンルのおもしろさを知ったのかなって」
「小さいころから、読んでたんだ」
なんで本が好きか。
そう言われてちょっと考えて、思い浮かんだのは、きれいな風景だった。
色んな色の花たちが映ってる、きらめきの湖。
小さな女の子が創り出した、誰も知らない花園。
「ここじゃない、どこかへ行ける」
自分でもびっくりするほどすっと言葉が出た。
物語のとても好きなところ。
わたしにはなくっちゃいられないところ。
どんな場所にいたって、『飛ぶ教室』を開けばわたしはたちまちクリスマス時期のドイツの寄宿学校にいる。
どんなときも正々堂々としてるマーティンを仲間たちと一緒に頼って、決闘に向かうマッツを応援して、自分は弱虫だって悲しむウリーの小さな肩を、わたしもそうだよってたたいてあげる。
違う場所へ飛んでいける自由だけは、誰にも奪えないんだ。
それってすごく幸せなことだって思うんだ。
それなのにももちゃんはせっかくの大人っぽいまぶたをハの字にしてこっちを見る。
「夢。あのさ、まだ夢はつらいの?」
そういう自分がつらそうに、応募用紙に長い睫を伏せて。
ももちゃんはゆっくり言った。
「ここじゃないどこかへ行きたいってことは、今ここが、いやだってことだよね」
どきりとした。
冬なのに背中に冷たい汗が流れるのがわかる。
ぎゅっと目を閉じる。
わかってる。
ももちゃんはわたしを心配してくれてるんだ。
だからがんばって答えなきゃと思うのに、あのことを考えるといつも、息が苦しくなって、手が震えて、声が出なくなる。
ちゃんと考えられない。
なにか言わなくちゃ。
大丈夫だよって言って、ももちゃんを安心させなくちゃ……。
そのとき、急に辺りが真っ暗になった。
上のほうが明るいなと思ってガラスの天井を見あげてびっくり。
そこにはきらきら光るオーロラが舞っていたの。
と思うと、部屋の扉がひとりでに開いた。
そこから一筋の金色の光が入ってきて、わたしとももちゃんの真ん中で、大人の人くらいの大きさになって。
そう思ったら、部屋が明るくなって、声がした。
「お待たせ、心を痛めた女の子たち」
そこにいたのは、薄茶色の髪をきちんとなでつけて、これまた茶色のスーツを着た男の人だった。一番最初に目につくのは、太い眉毛。それから横に長い目、高くて大きな鼻。外国の大人の人だ。
いつの間にかのホワイトボードには文字が書かれている。
児童文学世界会議
十二月の議題:少女の恋の問題について
「僕のことを呼んでいるルイーゼとロッテが、この時代のこの国にいるって聞いたものだから」
上手な日本語で言われた言葉に、わたしたちとももちゃんはぱちくりと目を見合わせた。
ルイーゼとロッテっていうのは、ケストナーの作品『ふたりのロッテ』に登場する双子の女の子たちの名前なの。離婚した両親を仲直りさせようと二人ががんばる、これもすっごくおもしろい物語で……って、そうじゃなくて!
この人、伝記の本の表紙の写真で見たことある。
まさか。
「おじさん」
ももちゃんが言った。
「ケストナー」
まさか。え。ほんとのほんとうに?
「の、マニアのおじさん?」
がくっ。
頭をテーブルにぶつけそうになっていると、おじさんはにっこり笑って胸をたたいた。
「その通り! 彼のことは誰よりよく知っている」
へっ? 否定しないの?
「へ~。子ども向けの本が好きなおじさんっているんだ」
ももちゃん、そうじゃないでしょ。
でもおじさんはちっとも気を悪くした感じもなく。
「もちろんさ。子ども向けの本を創りだしてしまうほどの子ども好き。それが僕だからね」
ももちゃんは、ようやく気がついたみたい。
「きゃっ、本物? あたし大ファンなんです」
あ、ずるい! あわててつけ加える。
「わ、わたしもっ」
ケストナーさんはにこにこ笑っている。
「ありがとう」
「でも、ケストナーって確か」
そう。
ケストナーは世界大戦を経験したくらい昔の人。
もうとっくに亡くなっているはずだよね。
わたしたちの疑問がわかったみたいに、ケストナーさんはうなずいた。
「幸いここには僕のことを書いた伝記なんかもあるからね。本に魂が残っていれば、この世を去ったあとも、こうして現れ出ることができるんだ。いやはや、生きているうちは有名になったことでいやな目にもあったが、こんな便利なこともあるとはね」
あんまりな展開にわたしはなにも言えなかった。
ももちゃんを見ると、同じように口をぱくぱくさせてる。
伝記から、書かれている人の魂が現れるって。
そんなことがあるのかな。
考えていると、ケストナーさんはさらに続けた。
「じつは閉店後の真夜中、ここ星降る書店で会議が行われているんだ。世界児童文学会議と言ってね。ここには子どものための本がたくさんあるだろう」
そう。ここには児童書のコーナーの中でも海外の名作と呼ばれている本たちがずらっと並んでいるの。
部屋が六角形なのも、ヨーロッパの図書館をイメージしたんだって、星崎さんが言ってた。
「毎週金曜日の夜十二時。お休みに向けてわくわくしながら眠りについた子どもたちの見る夢が創り出す、祝福のオーロラがガラスの天井に舞い降りてくるのが、会議開始の合図なんだ。それに遅れないように、我々、過去の児童文学作家は一つ下の階にある伝記の棚からここへやってくる。僕は一議員として、いままでは平穏かつ白熱した文学談義を楽しんでいたが、そのうちにまた書きたくなってね」
夢みたい。
わたしはケストナーさんの紡ぎだす言葉に聴き入ってしまった。
現代で苦しむ子どもを助けたいなんて、イメージ通りの人だなぁ。
「もう僕は一昔前のように紙に向かって物語を書くことはできないから、それなら現代の世で子ども達と一緒に難事件を解決なんかして物語を作ればいいと思い立ったんだ。とうとう会議開始時間の真夜中十二時より早めにやってきて、子どもたちがいる時間帯に姿を現すことにした。どこかに心を痛めた子がいないかなぁと思っていたら君たちに出会ったわけだ。やはり児童文学会議をするには子どもたちとでなきゃ。君たちなら僕のことをケストナーおじさんと呼んでくれてかまわないよ」
そこでケストナーさん、ううん、ケストナーおじさんは、わたしたちがあんまり驚いてぽかんとしてるのに気がついたみたい。
「おっといけない。喋りすぎたようだ。君たちの心痛を聴きに来たのにね」
そう言うと、ケストナーおじさんは、右手をスッとわたしのほうに差し出した。
「それで、僕のロッテちゃん。君はなにを悩んでいるのかな?」
夢、と、ももちゃんが背中を押すように言う。
でも、言えない……。
わたしはどうにか笑った。
「好きな人が、いるんです」
つい、別のこと言っちゃった。
「でも、その人、大人で。わたしなんかとても――」
ももちゃんは頭を抱えながら苦笑い。せっかく心配してくれてるのに。友達がなんとかしようとしてくれてるのに、わたしは逃げてる。ごめんねと心で小さく謝ると、それが聞こえたようにももちゃんが小声で言ってくる。
「いいよ。ほんとに困ってることは話せるようになったら言えばいいんだ。それに、そっちも夢にとって超重大な問題だしね」
「うん……。ありがとう」
こそこそするわたしたちに気をとめる様子もなく、ケストナーおじさんは大きく笑った。
「恋愛の問題か。困ったなぁ。そればかりは僕はあまり得意ではなくてね。しかし心配ご無用。今月の会議の出席者から一名、強力な助手を連れてきた」
天井のオーロラが揺れて、一陣の風が吹いた。今は冬なのに春の風みたいに暖かだった。さっきと同じように扉が開いて、虹が照らす草原のような明るい緑色の光がやってきて、ケストナーおじさんのすぐ横で大きくなり――。
やがて女の人の形になった。
「わたくしも暇じゃないんですからね」
長い黒髪を上でまとめて、長袖のたっぷりした白いブラウスの上に重ねたノースリーブワンピースがおしゃれ。足までの長いスカートはたっぷりと膨らんでて、上半身はいろいろな形の花が描かれた黒のY字型のレースで覆われている。
「紹介しよう、ルーシー・モード・モンゴメリ女史だ」
やはりこういうことは女性に頼まないと、っていうケストナーおじさんの言葉を聞くのもそこそこに、わたしは悲鳴をあげた。
「『赤毛のアン』の人だ!」
ももちゃんもぽんと手を打つ。
「あっ、そうそう、どっかで聞いたことある名前だと思ったんだ! えーっすごい」
『赤毛のアン』の作者、モンゴメリさんはその場にしゃがみこむ。そうすると黒いスカートがふわりと広がった。座っているわたしたちと同じ目の高さで眼鏡の奥の知的で優しそうな目が見つめてくる。
「あなたたち、アンは好き?」
もちろん。アンのすぐ自分の世界に入っちゃうところ、きれいなものが大好きなところがなんかちょっとわたしに似てるなって思ってたんだ。
緊張してどう答えようか迷っているうちに、横から声がした。
「はいっ。自分の髪の毛を緑にしちゃたり、友達にお酒をふるまって酔っぱらわせちゃったり、お笑いセンス抜群のアンを嫌いな子なんていません!」
ももちゃん、アンは受け狙いでやったわけじゃないんだよ……。
わたしはがっくりきちゃうけど、モンゴメリさんは嬉しそうにくすくす笑っていた。
「どうだいモンゴメリ嬢。君はすばらしいロマンスの書き手でもあっただろう。この子たちの恋愛問題を見てやってくれないものだろうか」
ケストナーおじさんに、モンゴメリさんはふっくらした唇を和らげた。仕方ないわねと、右目のまぶたが閉じられる。
「伝記本のなかに何十年といるのはつまらなくって。そろそろ新しい世界が見てみたいところだったの。協力させてもらうわ」
内緒話をするように、モンゴメリさんはわたしとももちゃんの顔のあいだにそっと唇を寄せた。
「午後四時、少女文学の棚で落ち合いましょう」
えっ。
少女文学の棚なんて、いかにもモンゴメリさんって感じ。
そこで、なにが起るんだろう。
楽しみ……!
わくわくとももちゃんと笑顔を交わしていると、モンゴメリさんが今度はきりっとした声を響かせる。
「ではケストナー。今日も正式な会議を始めるわよ」
「その前に、女の子たちに僕らの素晴らしい庭を案内してもいいだろう」
庭? なんのことだろう。
首を傾げて横を見ると、ももちゃんも同じようにハテナマークを頭に浮かべて肩をすくめている。
「仕方ないわね。すぐに戻ってきてちょうだいね」
「監督のお許しが出た。さぁ、君たち、ついておいで」
ウインクして、『名作の部屋』のオレンジの扉を開け放つケストナーおじさんにわたしたちは続いた――。
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