② パレットを投げた男の子 ~もも叶の語り~

 やっほー。はじめまして、みんな元気? あたし園枝もも叶。ももちゃんって呼ばれてる、夢の親友。

 あそこの角を曲がればクレープ屋さんで、ただいま猛ダッシュ中。

 てなわけで、今ちょっと取り込み中だから、自己紹介はこれくらいね!

 あれ。

 あたしはクレープ屋さんに向かう足のスピードをちょっと緩めた。

 角から大きな怒鳴り声が聞こえてきたんだ。

 どうもおじさんの声みたい。

 やれやれ。

 あたしは溜息をつく。

 すぐ怒鳴るおじさんて最悪。

 大きい声出せば人が思うとおりになるとでも思ってんのかな。

 そんなことを考えてると、角から想像通りのがっちりした男の人が出てくる。スマホを持って怒鳴ってる。騒音の犯人はこの人らしい。

「邪魔なんだよ」

 おじさんはあたしの腕を力いっぱい掴んで押しのけた。

「いたっ」

 押しのけられる途中、あたしの身体がおじさんの右腕にぶつかって、そこからなにかが落ちる。

 おじさんは舌打ちして落ちたものを拾い上げる。

「これだから子どもは。どうしてくれる」

 ページが破れ、ぱたっぱたっと音をさせながら男の人が汚れをはらっているそれは『飛ぶ教室』だ。夢から教えてもらった、あたしも大好きな、ケストナーって人の本。

「そっちが無理やり押しのけたんでしょ。言いがかりです」

 ぎろりと社長の目が光る。

「なんだと? もういっぺん言ってみろ」

 何度だって言ってやる。

「言いがかりって言ったんです。だいたい街の真ん中で大声だしてみっともないです。恥ずかしくないの? 街の人たちにも迷惑です」

「ふざけるな。お前は誰にも迷惑かけたことないのか?」

 論理のすり替えだ。

「あたしが今まで人に迷惑かけたかどうかは、今問題じゃありません。あなたのその行動が人としてどうかってことです」

「どうやら、口で言ってもわからんようだな」

 おじさんは今度はあたしの首ねっこをつかんだ。

 お気に入りのハートのネックレスのチェーンがが引きちぎられる。 

 あ。

 やばいかも。

 あたしは初めて焦った。

 曲がったことが許せない、意志が強いって夢は褒めてくれるけど、同時にこれは悪い癖。

 本の中じゃない、現実の世の中ではときとして、正直は禍のもとなんだ。

 殴られる。

 あたしは覚悟を決め、ぎゅっと目をつぶった。


 その時、パン、という小気味のいい音と一緒に、首元を虹色のなにかがかすめた。

 男の人が痛そうに手をひっこめ、あたしの首は自由になる。

 カタカタカタと地面の上で高速回転してぱたりと倒れたそれは、さっき男の人の手に命中した虹色のもの―――きれいな絵の具がたくさん塗られたパレットだった。

 パレットが飛んできた方向から、ゆっくりと声がした。

「大手出版社社長と言えども――いいえ」

 あたしは、声のするほうを見る。

「社長であるからこそ、モラルは守るべきだ」

 そこにいたのは、小学五年生で背の順は後ろの方のあたしよりさらに頭一つぶん背の高い、男の子だった。白い肌と顔立ちで、外国の子だってすぐわかった。茶色買った黒髪に、同じ色の瞳はきりりとしていて賢そう。

「ここから立ち去ってください。今すぐに」

 その子がきっぱりと言うが、おじさんはふん、と鼻を鳴らした。

「いやだと言ったら?」

 男の子は動じてないってかんじで、淡々と言った。

「今見たこと、ぜんぶ報告します。僕の知り合いは、御社が来月主催する『ケストナー生誕百二十周年祝賀会』に招かれる来賓の一人ですので」

 え。

 おじさん、ケストナーの生誕を祝う会に関わってるような人なの?

 こんな人が。びっくりだわ。

「破れてしまった原典のかわりに、どうぞお使いください」

 彼がおじさんに差し出したそれは、えんじ色の表紙で随分と大きな本だった。書かれているタイトルはもちろん『飛ぶ教室』。

 社長はそれをひったくると、ふてくされたようにその場をあとにした。

「ご英断ありがとうございました、社長」

 彼がその大柄の背中を睨みながら言う。

 やれやれ。

 あんなすてきな本を、あんないやな大人が持っているなんて。

 あたしは黒地にピンクのハート柄のお気に入りのミニスカートをはらう仕草をした。別に地面に転んだわけじゃないけど、お浄めの意味だ。

「危なかったね。大丈夫?」

 男の子が心配そうに声を掛かけてくれる。男の子はさらにこんなことも言った。

「さっきの君、すごかったよ。尊敬に値する」

「えへへへ」

 そんなふうに古風に言われると照れる。

 男の子を見あげて中学生くらいかな、と推測する。

 男の子の友達は多いほうだけど、クラスの男子たちとは違い過ぎてなんか調子狂う。

「あなたこそ、すごかった。あの偏屈おじさんに勝っちゃうなんて」

「まだまだこんなものじゃない。僕らは、彼をこらしめるために来たんだから」

「……へ?」

 きょとんとして訊き返したけど、男の子はあわててなんでもない、とそっぽを向いた。

「さっき社長が持ってた『飛ぶ教室』。君は好き?」

「大好き。本好きの友達に教えてもらったの。あたし、正義先生を尊敬してて」

 正義先生は、『飛ぶ教室』に出てくる学校の先生だ。

「そうだと思った」

「他の登場人物もみんな好き。大人だけじゃなくて、もちろんわんぱくな子ども達も。特に主人公のマーティン! かっこいいよね」

「ありがとう」

「え?」

 急に低い声で呟かれたお礼に、どきりとする。

 ありがとうって……なにが?

 小さく呟いた声は届いたかわからない。

 可愛いとさえ言える笑顔にぼうっとしちゃってた。

 気が付くと、彼はいなくなっていた。

 さっきまですぐそこに転がっていたパレットもいつの間にかない。

 名前を訊かなかったと今更ながらに思った。

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