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数日の葛藤ののち、私は決意を固めた。

その間、樹くんは私を急かすことなくいつも通り接してくれた。

それは泣きそうになるくらい、優しかった。


「樹くん、結婚することはできません。ごめんなさい。」


いつもの食卓で私は頭を下げる。

沈黙が、針となって私の胸をブスブスと刺した。


樹くんが箸を置く。

私は顔を上げることができない。


「姫乃さん、何で。俺のこと好きじゃない?」


そんなことない。

樹くんのことは大好きだ。

好きで好きでたまらない。


私は首を横に振って全力で否定する。


「じゃあ……。」


「……私、仕事のキャリアを捨てたくない。樹くんが自分の仕事に誇りを持っているように、私も自分の仕事に誇りを持ってるの。」


自分が決めたことを伝えているだけなのに、声が震えてしまう。

強い意思で決めたはずなのに。

言えば言うほど、樹くんへの想いが募る。

私はそれを振りきるかの如く、一気に気持ちを吐き出した。


「私も人事異動で、庶務グループのリーダーに抜擢されているの。私そこで頑張ってみたいの。だから……、ごめんなさい。」


しっかり前を向いて言いたかったのに、結局顔を上げることはできなかった。

胸に刺さった針はまだズキズキと痛かった。

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