1.戦闘科、決定

 この世はかつて、龍によって創られ、治められていたという。故に、この神域を――今ではそんな大層な呼び方をする人も少ないが――《龍世りゅうぜ》と呼ぶ。


 だが、人々がこの龍世の特徴としてまず最初に挙げるとするなら、妖という人ならざるものが蔓延っていることであろう。それか龍世の人々なら誰しも妖を滅する呪力を有していることか。


 独自の文化から発展を遂げていた龍世であるが、遥か彼方海の向こうにある《外つ世》――別の神が作り出した神域のことを、そう称する――が何十、何百も存在することが確認され、外の文化の輸出入が盛んとなった。そうして龍世は、外つ世の文化も取り入れたことで更に変化していく。


 その目まぐるしい変化もすっかり過去のものとなった今現在、呪力を持ってはいても使わぬ者の方がよほど多い。




 それは桜のつぼみが膨らもうとする、春になるかならないかの季節であった。


 その初等学校に限らず、その初等学校でも最上級生達が緊張の時を迎えていた。……いや、正確に言うと全員が全員、そうというわけでもなく。


「……、や、」


 席について恐る恐る書類に目を通し、最も大事なところを見つけたあおは声を漏らしかけ、


「……っ!!!」


 いやったぁ、と続きを大声でぶちまけそうになったのを、すんでのところで口を両手で塞いで堪えた。ひょろりと長いふたつ結びの髪が、その動作に応じて揺れ動く。はっと我に返ると、教室中の生徒が一斉にこちらをふり返っていた。


「……静井しずいさん、静かにね」


 他の生徒に書類を渡していた女性教師が、ため息混じりにたしなめてくる。


「……す、すみません」


 蒼は今更ながら顔を真っ赤にして、すごすごと椅子に腰かけた。大声を上げるのは何とか我慢できたが、椅子を蹴って立ち上がっていたのだ。ガタン、と大きな音がしたに違いない。


「今ので教室中にバレたね〜、結果」


 前の席に座っていた少女が、くるりと体をこちらに向けてきた。肩に届くか届かないかの髪は活発な印象を与えるが、からかうようにニマニマと笑っている様子はもっと食えない印象を与える。


「うぐ……」


 更に恥ずかしくなって、蒼は顔を机に突っ伏した。ゴンと音が鳴ったが、とても顔なんて上げられたもんじゃない。


「顔上げなって。合格だったんでしょ?」


 と言いながら、蒼の親友――李花りかが、半ば強引に蒼の顔を上げさせた。


「うん……」


 渋々顔を上げられるがままにして、蒼はこくりとうなずいた。たった今目を通していた書類をもう1度見れば、恥をかいて萎んでいたうれしさが改めてこみ上げてくる。



 静井 蒼 殿


 考査・面接・実技 合格


 よって東間あずま研修学校戦闘科入学を許可する。



 蒼を全身全霊で喜ばせたのは、この素っ気ない文章であった。


「意外過ぎるぐらい運動神経あるもんね、蒼」


「ひどっ!」


 李花にしみじみと言われ、蒼としては聞き捨てならない。しかし李花は「褒めてるんです」と厳かに言ってく……いや、これは軽く流している。


 むぅ、と思わずむくれた蒼であるが、気になることを思い出して身を乗り出した。


「あっ、そういえば李花は?」


 李花はどやぁ、という具合に笑って、書類を広げて見せた。



 木咲きさき 李花 殿


 考査・面接・実技 合格


 よって東間研修学校治癒科入学を許可する。



「わーさすが。聞くまでもなかったなぁ」


 蒼が小さく拍手すると、李花は気取ったお辞儀をしてみせた。その気障っぽい仕草に笑ってしまう。李花は広げた書類を綺麗に折りたたんだ。


「そういう蒼こそ。戦闘員希望の女子って少数派みたいだし」


「……うーん、まぁ。そうみたいだね」


「実感ない?」


「全然」


 自分も大事な書類をたたみつつ、蒼は苦笑した。




 妖が蔓延るこの龍世において。人々を襲う妖から身を守る為、人は内なる呪力を高め、『術』という形で具現化させた。


 現代では、対妖に特化した防衛局まである。


 術を学ぶことは文学や算学同様、政府から勉強することを義務付けられた指定教育の一部となっている。とはいえ簡単なおまじない程度、ちょっとした護身術といった程度だ。ちなみに指定教育は初等学校での6歳から7年間、つまり13歳で修了、その後は自由教育の学校で学ぶ者もいれば働く者もいる。


 13歳以降で通える自由教育の学校は、大きく分けてふたつ。ひとつは指定教育の更に応用である高位教育を学ぶ高位学校。そしてもうひとつは、特定の分野に特化して学ぶ研修学校。


 どちらも指定教育ではないので、試験を合格しなければ入学できない。そしてその結果通知は現在通っている初等学校を通して渡される。蒼が飛び上がらんばかりに喜んだのは、この通知が合格を示していたからだ。


 13歳の静井蒼は、これから対妖戦闘員となる為研修学校の戦闘科に所属するのである。




「あぁ〜にしてもほんとよかった。自信なかったんだよね」


 ひと月前に受けた入学試験をもうかなり昔のことみたいに思いつつ、蒼は合格通知の入った封筒をうっとりと見つめた。あの時はこうなる未来を全然想像できていなかった。


 考査は手応えを感じなかったし、面接はガチガチで何を喋ったのか今ふり返ってみても思い出せない。……実技でもドジを踏んだ気がするし。


 研修学校は、指定教育を終えたばかりの13歳で入学する場合と、それより後――例えば高位教育を終えて以降など――に入学する場合とに分かれる。後者は学科にもよるが、入学できる年齢の幅が広い。その為入学試験もそれなりの成績を求められるが、指定教育修了直後での入学試験はかなり易しいらしい。


 戦闘科は基礎体力があれば大丈夫だともっぱらの噂で、かなり運動神経のいい蒼なら大丈夫だと李花や他の友達、家族もよく言ってくれていた。


 だが、こんな結果では不合格なのではと蒼は試験後、家に帰るやベッドにうずくまっていた。そこで泣いたなんてことは決して、そう決してない。


 のだが、


「泣いたんでしょ」


「うッ⁉︎」


 いきなり見抜かれた。ほほうと何故か、李花が感心したような声を漏らす。


「はいともいいえとも言ってないのに正直な答えをくれる……、さすがのセンスだわ、蒼」


「褒められている気がしないんですけど⁉」


 李花は「いやいやいや」とわざとらしく手を振ってみせる。


「けどまぁ、合格おめでとう」


 いつもからかってくるが、追い詰めることはしないでくれる李花だ。何だかんだで優しい。


「戦闘科に入ったのって、やっぱお父さんの影響?」


 ころっと話題を変えてくれるところがまたありがたい。蒼は、むぅと膨らませていた頬を元に戻して考える。


「うーん……、それもあるのかな。体動かすのが好きだし得意っていうのもあるけど」


 そっか、と李花がうなずいたところで、教師がパンパンと手を叩いて教室内のざわめきを打ち切った。


「はい、それじゃあ連絡事項伝えていくわねー」


 思いっきり真後ろ――つまり蒼――を向いていた李花が、慌てて前に体を向けた。


 連絡事項を述べている教師の声をぼんやりと聞き流しながら、蒼は李花との会話が打ち切られたことにホッとしていた。


 ……隠し事は苦手だ。




 戦闘科を目指した理由。


 李花が言ってきた通り、父親の影響というのはやはり大きい。大好きだったお父さん――晦日つごもりは、蒼が10歳になるその前の日に、妖との戦闘で命を落とした。


 晦日は優秀な戦闘員として、防衛局でかなり高い評価を受けていた。


 それだけに周囲の誰もが驚き唖然としたし、蒼だってその1人だった。――強いと信じて疑わなかったのに。どうして。


 突然ひとりぼっちにされた絶望感を、蒼は多分、この先もずっと忘れないんだろう。というのも、母の真中みなかも蒼を産んだ時に亡くなっていたからだ。元々体が弱かったらしい。


 晦日は周囲の助けを借りながら、それでも男手ひとつで蒼を育ててくれた。


 学校の授業より、晦日に休日に教えてもらったことの方が、蒼にはずっと為になった。運動神経が鍛えられたのは、晦日が“遊び”と称して訓練させてくれていたのが大きい。晦日から、戦闘員としての体験談を聞くのも楽しかった。戦闘員に憧れるのは、小さい蒼には自然な流れだった。


 しかし、実のとこ――理由はそれだけではない。



 多分、5歳ぐらいの時だ。晦日つごもりはまだ生きていて、2人で山に囲まれた田舎でのんびりと暮らしていた。


 2人の家はその小さな街にあって、魔除けの結界が周囲を囲っていた。町から1歩でも外に出れば、危険区域だ。妖の活動が活発になる夕方から夜にかけては、子どもが、しかも1人で結界から出ようものなら自殺行為である。


 その自殺行為を、蒼はしてしまったのである。



 街の外へは絶対に出るなよ、と父に厳しく言われていたので、近所の子達と街の広場で鬼ごっこをして遊んでいた。みんなはきゃっきゃと無邪気に笑っている。


「……蒼ちゃん、どうしたの?」


 男の子の1人が、心配そうに蒼の顔を覗き込んだ。蒼とは1番家が近く、そして特に仲のいい友達だった。


「ううん、なんでもないよ」


 うかない顔のまま、蒼は首を横に振った。作り笑いは13歳になった今でも得意ではないが、この頃はもっとできなかった。


「具合悪いの?」


「ううん、大丈夫」


 なおも心配そうな友達を、蒼はうそでやり過ごした。


 具合は悪くない。ただ……、心が重い。


 空が焼けるように赤くなった頃、誰からともなく「帰ろう」という流れになった。ばいばい、と家の方向が違う子達と別れ、最終的には蒼と蒼の具合を心配していた子との2人になる。


 そろそろ家が見えそう、というところで、蒼は足を止めた。


「? どうしたの?」


 先を歩きかけた男の子が、不思議そうにこちらをふり返った。うつむいている蒼のところまで、わざわざ戻って来る。


 だから、その優しさに甘えたくなったのかもしれない。


「ねぇ……、もうちょっと、遊ぼう?」


「えっ?」


 おずおずと提案すると、男の子は虚を突かれたようにきょとんとした。


 無理もない。いつもは家が近付くと、父に出迎えられるのがうれしくて駆け出していたのだから。


「でも、もう暗いよ。明日にしよう」


 男の子が困ったように言って、蒼の袖を引っ張った。


「……まだ夜じゃないもん」


「でも、暗いと結界の中でも恐いよ」


「……恐くない」


 立て板に水、というように、言い返していく。


 屁理屈という言葉を、その当時知っているわけがない。ただ、言葉を重ねていくごとに、苛立ちと罪悪感で胸のあたりがぐちゃぐちゃになっていくのは分かった。


「でも、蒼のお父さん心配するよっ?」


 ――今1番、聞きたくない言葉。


 正しいのはわかっている、けど、正しいからこそ、


「……もういいっ!」


「あっ、蒼ちゃん!」


 頭がカッと熱くなって、男の子の手を振り払って走り出していた。家とは真逆の方向へ。


 喧嘩のきっかけは、些細なものだった。


「お父さんっ、今日街の外行って来ていい?」


「今日か? ……ごめん、お父さん今日は家で仕事しなくちゃいけないんだよ」


 晦日は昼間に限った話だが、時々結界の外に連れて行ってくれていた。そこで“遊び”という名の訓練に明け暮れたり、時には妖を2人でこっそり観察したり。


 申し訳なさそうに頭をかく晦日に、蒼は胸を張ってみせた。


「あたし1人で大丈夫だよ!」


「駄目だ、蒼にはまだ早い」


「そんなことないもん!」


 ついムッとして、蒼は言い返していた。


「あたし足速いから、ちゃんと逃げられるよ!」


「駄目だ。いいか、蒼……、」


「……じゃあいいもん! みんなと遊んでくる!」


「あっ、蒼!」


 そうして逃げるように家を飛び出して来たのだ。


 早く父親に追いつきたい一心で、強くなりたい一心でした提案をあっさりはね返されて、悔しくて仕方なかった。


 ――でも、お父さん心配するよっ?


 そんなことはわかっている。誰よりも、自分が1番。でも、さっきの喧嘩を引きずっている蒼にとって、その台詞は更に腹立たしかった。自分が同い年のはずのあの子より子どもじみていると実感して、悔しかった。


 泣きながらまともに前も見ず走っている内、トプン、と水に入ったような感覚が耳を抜けて、蒼は足を止めた。


「……?」


 その感覚は一瞬だったので、気のせいかと思った。だが、目の前に鬱蒼と広がる木々が気のせいではないことを物語っていた。結界の外に出ていたのだ。


 人々を妖から守ってくれる結界だが、そのほとんどが邪気を感知して効力を発揮するものだ。しかも大抵が外からの干渉を防ぐ為にある。つまり、内側から出ようとする人間には、結界は機能しない。


 満月に照らされた、妖の邪気が漂う黒々とした森。それを前にしても、蒼は「恐い」という感情がまるで湧かなかった。泣いたのと走ったのとで、心が麻痺していたのかもしれない。


 ふらふらと、夜気の香る森に足を踏み入れてゆく。


 邪気や気配といったものには、かなり敏感だった。だから四方八方から受ける視線も、肌がビリビリするぐらい感じていた。


 ――お前は本当に敏感だなぁ!


 父が本気でびっくりして、本気で感心していたことを思い出して、蒼は胸がぎゅっとなった。父の反応がうれしくて仕方なかった。


 引っ込んでいた涙が、またじわりと瞳を覆う。


 懸命にそれを腕で拭い――次の瞬間に起きたことは、あっという間だった。


 背中に、刺すような視線を感じて。


 こちらに飛びかかってくる気配と音がして。


 そちらをふり返って。


 明らかに人や獣ではない双眸と目が合って。


 刃物めいた何かが、ふり下ろされて。



 ――キィンッ、と甲高い音が耳の奥まで響いた。



 刃と刃がぶつかり合うような、けれど、それよりずっと澄んだ音。


 蒼は襲いかかってきた刃物の餌食になることなく、へたり込んでいた。目の前の光景に、魂を抜かれたように魅入っていた。


 蒼の前に、ふわりと古めかしい雅な衣が舞う――そうして、音もなく地面にとん……と降りた。蒼を庇うように立ったのは、背の高い青年だった。どうやら、襲撃者から蒼を守ってくれたらしいと、何秒も遅れて理解する。でも――どうやって? あんなに甲高い音がしたのに、青年は武器ひとつ持っていない。


 混乱する頭でそこまで考えて、蒼はようやく襲撃者が断末魔の悲鳴を上げていることに気が付いた。身悶えしているのは、青年の身長の倍以上は体長のある、蟷螂(かまきり)みたいなモノ――そうとしか言いようがない。


 1番似ているのが蟷螂というだけで、決して蟷螂を巨大化しただけの見た目ではない。確かに腕みたいなところに鎌のようなものを生やしているし、目も虫めいた光に覆われているが――腹はゾッとするほど肥大化し、足は百足のごとく何十本何百本と無限に、あらゆる箇所から生えている。顔や羽からも生えて地面に届いていない足が何の為にあるのかなんて、蒼に分かるわけがない。


 悶え苦しむそれは、間違いなく妖だった。体の動きに合わせて大量の足も好き勝手に暴れている。今にも体から離れて動き回りそうなほど。


 呆然としていた蒼は、そこで妖がふり下ろしてきた鎌みたいな部位が地面に落ちていることに気が付いた。蒼の身長を軽く超えるほどに長い。ばっさりと斬り落とされて、痛がっているらしかった。だが妖にはあと1本、鎌が残っている。


 青年が、その妖に向かって駆け出した。そしてそのまま――突っ込んだ。


 危ない! と息を呑んだが、青年は妖の体のど真ん中を駆け抜けた――ように見えた。


 悲鳴はブツリ、と止んだ。ぞっとするほどの大量の血が飛び散るのを代償に。


 妖の体は真っ二つに裂かれ、ぐしゃりと地面に無様に崩れ落ちた。


「……!」


 その惨たらしい光景に、蒼は悲鳴を上げることすらできなかった。


晦日が昼間に結界の外に連れ出してくれた時、妖に見つかったことは何度かあった。しかし、晦日が蒼の目の前で妖を殺すことはほとんどなかった。昼間の妖は動きが鈍い。だから、危険な時はいつも逃げることを最優先にしてくれていた。ほんのたまに、撃退しなければ危険な時も、少なからず、こんな風に惨たらしく殺すやり方はしていなかった。ほとんど蒼の目を覆って晦日は対処していたけれど、そうだと蒼は感じていた。


 蒼はふと、痛いほど感じていた四方八方からの視線が、いつの間にか消えていることに気が付いた。


 邪気は相変わらず色濃い。だが、青年が来る前と後とではまるで気配が違う。殺気が消えていた。


 まるで、青年を恐れて遠くからひっそりと窺っているかのような。


 月明かりに、斬り裂かれた妖の死体が晒されている。どうやらここは、森の開けた場所だったらしい。どうりでいろんな物がはっきりと見えるわけだと、ぼんやりと考える。


 だから青年の姿も、月明かりに照らされてよく見えた。


 生まれて初めて見る惨たらしい光景を、洗い流すかのごとく。青年は、そこにいた。


 ――きれいな、銀色。


 胸に湧き出た言葉はそれだった。


 青年の髪は、月の光を受けてキラキラと光っていた。


 ふり返った青年は、こちらに向かってスタスタと歩いてくる。不思議なことに、あれだけ妖の血が舞ったというのに、その髪も、顔も、着物も、何ひとつ汚れていなかった。


 冴え渡った刃を思わせ、清流のような涼やかさも含んだ、綺麗な顔立ち。瞳も澄んだ銀色。人間ではありえない。


「おにいちゃん……、あやかし?」


 自然と言葉は口に出た。


 青年が身に纏う空気は、人や獣とは完全に別の次元だった。だからそう尋ねていたのだが、蒼はそう言いながらも、「違う」と直感的に確信していた。青年が邪気と呼ぶにはしっくりこない、淀みの一切感じられない清廉な気を纏っているからだ。


 青年は初めて、ふっと笑った。そして蒼の質問には答えずに、ゆっくりと歩み寄ってくる。あれほど容赦なく妖の胴を裂いたというのに、蒼はその青年に恐怖の念を持てなかった。青年の纏う気配があまりにも綺麗で、でもそれ以上に、笑った顔が、蒼を慈しむように、とても優しかったからだ。


青年が、小さい蒼の手を取って立ち上がらせた。手はそのまま離さず、ゆっくりと歩き出す。


 どうして笑うの。


 あやかしじゃないの。


 どこへ行くの。


 いくつも出てくる問いは、結局どれも口から外へは出なかった。この青年のことを、信じていい気がした。


 青年の手は、冷たいような温かいような、不思議な体温だった。触れているだけで、その澄み切った気がこちらにまで流れ込んでくるような。


 会話もなく、ただ歩いた。月明かりが照らし出す、道とも言えぬ道。相変わらず禍々しさに満ちた森。しかし手を引いてくれるその人は、周囲の恐ろしさを遠ざけてくれる。道中、蒼はずうっと、青年の顔を見上げていた。そうして転びそうになると、危なげなく引き上げてくれる。どこか窘めるような笑みを向け、またゆっくりと歩き出す。


「あ……」


 その手に導かれ、やがて、見知った街が見えてきた。灯りの点々と光る光景に、胸がいっぱいになる。


 ……と、青年が今まで繋いでいた手を離した。


 えっ、と思って顔を上げると、青年はこちらを見下ろしていた。やわらかく微笑んでいる。


 ――ここから先は1人で行きなさい。


 そう言っているような気がした。


「……お別れ?」


 おずおずと訊くと、青年は肯定するように目元をやわらげた。


「もう会えない?」


 不安がこみ上げてきて、縋るように、青年の袖をつかんでいた。青年は蒼の手をそっと優しく外すと、蒼の目の前にしゃがんでみせた。同じ高さで、視線が重なった。間近で見ると、やはり、この世の何よりも美しい瞳だなと思った。青年が、蒼の髪をふわりと撫でる。


 大丈夫、と言い聞かせるように、ふっと笑いかけられた。蒼は息を呑む。その反応を見てか、青年が立ち上がった。動けないでいる蒼に背を向け、静かに歩いて行く。


「またね……っ!」


 思い切ってその背中に呼びかけると、青年が一瞬、足を止めたような気がした。だが、ふり返ることなく、ゆっくりと遠ざかっていく。


 やがて、青年の姿は夜の闇に溶け込むように消えていった。まるですべてが夢であったかのような別れであったが、それが現実であることを、幼い蒼は理解していた。何故ならば、やはり周囲を取り巻く邪気が、何かを恐れるように蒼へ殺気を向けなかったから。




 その後、蒼はしばらく青年の消えた先を見つめていたが、助けてくれた青年の為にも街に戻るべく足を向けた。その途中を、父に発見された。わざわざ結界の外まで出て、捜しに来てくれていたのだ。


 そして、家に2人で帰ってから――こってりしぼられた。


 近所の人達も捜してくれていたんだとか、みんながどれだけ心配したことかとか、お説教をまとめるとそんなところである。


 蒼が手を振り払った子が晦日に蒼がどこかに行ってしまったことを知らせてくれていたらしい。その夜の内に、蒼は男の子のところに謝りに行かされた。


 普段は人懐こくて温和な父にこっぴどく叱られた思い出がついてまわるあたりが情けないが――とにかく、不思議な体験をしたのだった。



 戦闘科を希望したのは、その青年に憧れたからというのもある。目の前で鮮やかに助けてくれたあの背中に、憧れるなという方が無理な話である。


 結局、その青年とはあれ以来会えていない。妖にかかわっていたら、いつか会えるんじゃないか、という期待もほんのりとあった。


 蒼自身あまり物覚えは良くないが、あの青年の姿はちゃんと憶えている。というか、強く印象に残っていて忘れられるわけがない。


 アルバムを何度も開いて眺めるように、思い出をふとした時になぞっていく。それが胸に温かい。



 けれどもちろん、こんなことを友達に話せるわけがない。


「……静井さん!」


「うぁッ、はい‼︎」


 はっとして顔を上げると、自分以外の生徒はみんな起立していて、座ったままなのは自分だけであった。


 クラスメイト達は不思議そうにこちらを注目し、教師は不機嫌そうにこちらを睨んでいる。さっきの呼び声は教師のものだったらしい。


「すっ、すみません‼︎」


 大慌てで立ち上がると、皆がクスクスと笑い出した。


「まったく、あなたは戦闘科に決まったのよ? そんなにぼんやりしていて妖を撃退できるの?」


「気をつけます……」


 蒼は真っ赤になって縮こまった。


「妖はここにいるみんなのように、あなたのそういうところに笑ってくれたりしないのよ。迷わず殺そうとしてくるわ。平和な教室でそんなに隙だらけじゃ、この先心配だわ」


「……は、はい」


 教師はそれ以上追及せず、日直の生徒に視線を移動させた。「礼!」と日直が号令をかける。


 ありがとうございました、とみんなと声を合わせながら、小さく肩をすくめた。


 ……こんな環境で、「人ではない何かに妖から助けてもらいました、でも『彼』は妖ではありません」、なんて。気軽に誰かに言えるわけがなかった。

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