三の二
「いい加減にしたら、いかがか」
文机を挟はさんでにらみあっていた三人は、三之助の言葉が誰に向けられているかわからず、同時にこちらをみたが、三之助の目が藤川にむいているのをみとめ、当人が、
「小野、誰にむかって云っている」
と怒りをおさえるように云いながら、切り裂くような目でにらむ。
「あなただ、私はあなたに目をあわせているでしょう」
三之助は藤川のまえに、袴を大仰にさばいてすわる。そして云った。
「堤防の修繕は、上野前家老だけでなく、ご先代様(前藩主)も推進されていたこと。それを、藤川さん、あなたひとりの一存でどうこうしようなどと、虫がよすぎる話でしょう」
「私の一存だと。ふん、私は、神谷さまからじかに仰せ付けられたのだ。あの工事は中止だ、無駄だ、無駄に金がかかる。とな」
「でしたら、なぜ正式に中止の通達が作事方にも勘定方にも下りてこないのです。そんなもの、あなたのでたらめでしょう」
「でたらめなものか。ひと月も前に、宴席でそうおっしゃった」
「それ、ひと月も前の話なのに、どうしてまだなんのお沙汰もないのです」
「それは、なにかわけがあるのだ。いつ、とりやめの通達がくるかもわからない、来てから中止したのでは遅い。それこそ無駄な出費がかさむ」
「そのような通知、待てませんな」
「待つも待たぬも、無駄なものは無駄だと申しておろう」藤川は、じれったそうに膝を叩きながら云った。
「無駄なことがありますか。領民のための工事ですぞ」三之助は、身を乗り出すようにして云った。
「そんな、いつくるかもわからない洪水のために、なぜ堤防の修繕をせねばならんのか。今年も、去年も、堤が決壊するなどということはなかっただろう」
「それは、たまたま、ここ何年かは強い大風もこず、たいした大雨も降らなかっただけのことです」
「八年前の決壊でも、百年に一度くるかこないかの大雨だったというではないか。百年に一度の大雨が、そう立て続けにくるか」
「そんなことはわからない。だれにもわからない。ひょっとすると、明日すぐに来るかもしれないではないですか」
「そんな当て推量がとおるとおもうか」
「当て推量をおっしゃっているのはどなたです。大雨がふって堤防が決壊して、困るのは領民だ、あなたではない。しかも、そのような被害がでれば、今でも借財に苦しむ藩が、さらに借金を重ね、苦しみが増すことになるのは目に見えておりますぞ」
「当て推量かどうかはともかく、中止なものは中止だ」
「ふん、神谷さまの威を借りて、なにを偉そうに」
「な、なんだと。貴様のような、どの派閥につくかも選べない
「あなたは、汚い。あなた自身は大した才能もないくせに、神谷さまの親族だからというだけで、我が世の春を謳歌しているつもりになっている。謳歌しているのは、神谷さまであって、あなたではない」
「神谷さまであろうとなかろうと、藩政の実権をにぎっているひとの方針に従うのは、いち藩士として当然であろうが」
「あなたは、
「小野、貴様は藩士としての自覚がたりんな。組織で働く人間としての自覚だ。いい歳してその程度の見識も身につけていない出来損ないめ」
「私の自覚などどうでもよろしかろう。私はあなたの性根のいやしさをいっている。あなたのような、強者にへつらう、みじめな人間の意見では世の中は動きますまい」
「神谷さまの後ろ盾などなくとも、実力で動かしてみせるわ」
「でしたら動かしてごらんなさい。その達者なお口をくるくるまわして、私を論破してごらんなさい。無理です。あなたには無理です。あなたのその根拠をともなわない浅薄な言葉など、誰の心にもとどきはしますまい。誰の心を動かすこともできますまい」
「云わせておけば、無礼であろう」
「無礼なのは、どちらか」
「おのれ」と立ちあがって、藤川が腰の脇差に手をかける。
「おお、抜きますか」と三之助は座ったまま相手を見あげて云った。「そんな度胸がおありなら、抜いてごらんなさい。お城うちですぞ。ここで刀を抜いたらどうなるかおわかりでしょう」
「どうもこうもあるか、表にでろ、決闘だ、貴様も抜け」
「いえ、抜きません。あなただけ抜きなさい。私はご抵抗つかまつるが、刀は抜きません。そうすれば、喧嘩両成敗などではなく、腹を切るのはあなたひとりだ。それでもよければ、抜きなさい」
「ななな」
言葉を詰まらせて、藤川は血走った目を大きく見開いた。その目は引きつり、怒りのために顔面を、
三之助は、その様子を、真一文字に唇を結び、平然とした顔をして、きっと見つめて、そして云った。
「さあ、どうしたっ。抜けるものなら抜いてみなさいっ!」
「な、おま、ななな」
藤川の柄に手をかけた手が、異常に大きく震えだしたと思うと、それが全身にまわり、身体じゅうを波打たせるように震わせはじめた。
そして、背中を大きくそらして、その首があおむき、
「きいぃっっっ!」
と耳をつんざくような奇声をあげ、膝から崩れ落ちるようにして、畳のうえに倒れ込んだ。地響きが高らかに鳴り響く。
倒れたうえに、まだ身体を痙攣させ、口からは白いあわを大量に流している。
三之助は、それを、冷ややかな目でみつめた。
ふたりの口論を、右に左に首をふりながら観戦していた作事方のふたりは、同時に顔を見合わせた。
やがて、
「あの、よろしいので?」
そのうちのひとりが心配げに藤川を見、三之助にたずねる。
「ふん、
口論の間じゅう、とまっていたそろばんの音色が、また部屋に響きはじめた。
「さ、必要な書類はこれですかな」
と文机の上にひろげられた書類を、丁寧に、押しいただくようにして取ると、三之助は、組頭の高沢のもとへ持っていった。
高沢は、眠っていた格好のままで、三之助たちのやりとりを聞いていたようで、机の上に書類がおかれると、ふっと起き直るようにして、それを寸時ながめ、署名捺印をした。
その中年おやじの、のんびりとした態度に、三之助は急に不安になった。
――先日たのんでおいたことは、ちゃんとやってくれているのだろうか。
たまらず三之助は小声で、
「あの、組頭、先日お願いした件ですが」
と聞くと、高沢は、おっくうそうに、
「ああ、あれな。まあ焦る気持ちはわからぬではないが、ああいうことは日がらが肝心だで。近いうちに、な」
「はあ」
なんとも煮え切らないその態度に、晴れない不安をかかえながらも、三之助は書類を受けとって、次の間へ持っていった。
作事方のふたりは、にこやかに笑って、やあ世話になった、とか、ごくろうさまでした、とか口々に云って、彼らの役所へと嬉嬉とした足どりで帰っていった。
藤川はまだのびている。
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