その三
三の一
雨が降っている。
桜雨だ、などと風流を楽しんでいたのは昨日までで、雨は嵐にかわり、その風雨は、葉がだんだんと数を増やすなか、枝にしがみつくようにして懸命に咲いていた桜の花びらたちを、容赦なく散らせてしまった。
城内にある勘定所の前に、三本ならんだ桜も、薄紅色の花びらはもうずいぶん散ってぽつりぽつりとまばらになってしまい、その大半は緑の若葉がひしめくようにして生い茂っている。
雨自体は、昼頃に霧雨のように雨粒を小さくしたものの、風はまだ強く、あおられてふりこむ水滴は縁側のなかほどまでも濡らしてしまっていて、葉桜を見ながら廊下の奥のほうを歩く小野三之助の
三之助が勘定方の部屋にもどると、席がひとつあいていて、そこが藤川秀吾の席だとわかってはいたが、気にもとめずに、自分の席に座って、そろばんをとる。
そろばんを爪弾く音色だけが、部屋のなかを支配しているようで、ここちよい響きが部屋のなかにこだましている。
その音色が子守唄のように聞こえるのか、上座に座る組頭の高沢はこくりこくりと舟をこぐ。
と、三之助の後ろにある次の間から、
「だから、なにがいけないというのか」
と怒りをおさえたような、だがおさえきれずにたかぶってしまったような大声がした。
さきほどから人の話しあうような気配がしていて、気にはなっていたのだが、その大声によって、いささか尋常ではない空気が、襖の向こうから伝わってきたようだった。
一瞬とまった皆のそろばんの音色が、またすぐに鳴りはじめる。
「神谷家老はお認めにはならないともうしておるのだ」
さきほどの大声の主とは違う声、――確実に藤川のものとわかる声が嘲弄するような調子でそう云った。
「貴公は家老、家老ともうすが、この工事はもう何年も前から計画されていたことだ」
「だがそれは、さきの上野家老のときの話。家老がかわればそのような計画はいちから考えなおされるのが当然だ」
どこかの役人の持ってきた案件に、藤川がけちをつけているような雰囲気だった。
聞いていると、その役人はふたりほどいて、それはどうやら作事方のようで、丸依川の堤防の改修工事の案件のことを、やりとりしているようだった。
作事方が、改修をはじめるにあたって、まずいくらいくらの金高を出してくれなくては困る、道具をそろえたり人足を雇ったりするのに、すぐに必要だ、というのに、藤川は、そんなものは出せない、の一点張りだった。
丸依川の改修工事は、八年前に大雨で堤が決壊するよりも、ずっと以前からの、藩の念願だった。藩領の真ん中をつらぬくように流れる丸依川は、城下三里のところで、藩境の南を流れる
つまるところは、丸依川堤の改修は祖先からうけついだ重代の悲願だった。
三之助は次の間から聞こえる会話を聞いていて、だんだんと腹がたってきた。
藤川が云っているのは、難癖以外のなにものでもなく、作事方の面々を困惑させて楽しんでさえいるようにも思えたし、神谷家老の縁戚関係であることの優位性を誇示しているようにも思えた。
三之助はしばらく、気持ちの興奮を貧乏ゆすりをしてごまかしていたが、やがて、湧きあがる憤慨に突き動かされたように、つっと立ち上がった。
となりの同僚が目で追うようにちょっと見上げたが、すぐにまたそろばんへ目をもどす。
三之助は、襖を勢いよくひらくのと同時に云った。
「いい加減にしたら、いかがか」
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