二の八
「元気そうで、ひとあんしんした」
と茂平は、言葉どおりに、しんそこから安心したような顔でいう。
「母が寝たきりのうちは、ずいぶん苦労もしましたけど、こっちにもどって五年ほどで亡くなりまして。そのあとは、わりと気ままに暮らしています」
「おっかさんは、
「ええ、それで、なんとか右側の手足を動かせる程度で、だんだん衰えてきましてね」
「そうか、まだ四十も半ばで、不憫じゃったのう」
加代はそれには答えず、
「さあ、お茶が入りましたよ」
と云って、三之助と茂平の前に湯飲みを置いた。
「この子は、いくつじゃ」
「もう、みっつになりました」
「とうちゃんは、畑か」
「ええ」と云った加代は、ちょっと考えるそぶりで、「あら、違いますよ、わたしの子供じゃあありません。弟夫婦の子なんですよ」
「あら、そうかい」と茂平は面食らった顔。
「わたしはもうこりごりです」
「そうかい」と今度は茂平は寂しそうな、余計なことを云ったというような顔で、「やっぱり所帯をもつ気にはなれんか」
「さいわい、見てのとおりで、うちはけっこう土地も持っていますし、よっぽどの飢饉でもなければ、食うにこまることもありませんからね。やっかい伯母のひとりくらい、面倒みてくれますよ」
ねえ、と加代は云って、子供の顔をのぞきこんで笑う。
やはり、昔結婚していたころのつらい経験を、彼女はまだ引きずっているのだろう、と三之助は思った。
「あ、肝心なことを聞きそびれて」と加代は話しをかえた。「旦那さまと奥様はお元気にされていますか、おぼっちゃん」
と、顔を三之助にむけて聞いてきた。
突然話を振られたものだから、完全にまごついてしまい、ああ、とひとこと返答すればいいだけの話なのに、その、ああ、がでてこない。
「これ、これ、お加代」とその隙を埋めるように茂平がたしなめた。「もう、家督を相続されて、いまは三之助さまがご当主じゃぞ」
「あらいやだ、これは失礼をば」
と云って、口もとにかるく手をやり、おほほと笑った。
切れ長の目を弧を描くように細め、口の端のあがった唇を半分ほどひらいて笑う顔は、昔の加代のままだった。
「ああ、父も母も元気でやってる」加代の笑顔で、心がほぐれて、三之助はやっと言葉をだせた。
「大旦那さまにも、奥様にも、なんとお礼を云っていいか。いまだにご恩返しもできていませんで」
「父も、母も、そんなことは望んでいまい。加代の……」
と云って、三之助はちょっとのどがつかえたように、言葉をとめた。自分の口から発した、加代、という名前が、なぜか奇妙な響きをもって、耳に響いた。十年間、あれほど妄想のなかで呼び続けた名前なのに。
三之助はお茶をひとくちすすって、つづけた。
「加代が、元気にしていることがわかれば、ふたりとも喜ぶだろうよ」
「
「ああ、もう、三年も前に縁付いてな。俺より早く結婚したよ」
「あら、おぼ……、旦那様はまだ結婚されては」
「ああ」と加代から旦那様と呼ばれることに気恥ずかしさをおぼえつつ、「まったく縁談もなくてな」
「そうですか」
「いえ」と茂平が話に割って入って、「旦那様は来る縁談を、もういくつも断っているのだ。そんなことでは、一生独り身ですぞ」
突然三之助は苦言をいわれ、苦笑した。
それからは、ほとんど加代と茂平がふたりで会話を進めていた。町がどう変わっただとか、あそこは変わっていないとか、茂平の妻のおきくの話だとか。やがて、加代が小野家にいたころの話になり、三之助のいたずらの話だとか、失敗の話だとかで盛り上がりはじめた。そのころになると三之助はにがにがしい気持ちで会話を聞いていた。話が進めば、あの出来事が話題にでてきそうで、落ち着かない気持ちだった。
ふと、表で人の気配がする。三人が同時にそちらに目をむけた。
老人がひとり、鍬をかついで庭にたっていて、こちらを、不思議なものをみるような目でみつめている。
「あら、おっとさん」と立ちあがり、加代は縁側までととと、とはや足でいって、「小野さまの、おぼっちゃまと、茂平さんよ」と、三之助たちに聞こえるようなささやき声で、教えている。
「ああ、これはこれは、存じませんで」
と云いながら、加代の父親は、鍬を投げ出すように置くと、地べたに頭をこすりつける勢いで、平伏する。
「いや、やめてくれ」と三之助もそこまで行って、「突然来たのは私たちだ、気にせんでくれ」
「いやいや、しかし、娘がほんにお世話になりまして、なんとお礼をもうせばよいのやら」
「本当に、気にせんでくれ。いつもいつも、野菜や漬物をおくってくれて、感謝せねばならんのは、こちらのほうだ」
「旦那様もこう云っているんだから」と茂平までやってきて云った。「お手をおあげくださいな」
そうしてやっと、加代の父親はおそるおそるといったふうに立ちあがった。
茂平は、久しぶりですな、とか、畑のできはどうですか、などと縁側の上と下で話をはじめた。
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