二の七

 ことここにいたっても、三之助はまだ、ぐずぐずとしりごみをする思いであった。

 それは、たとえ加代の顔をみたところで踏ん切りがつくものでもなく、なおいっそう、きびすをかえしたい気持ちが強まるほどだった。

 ――いったい、どのつらをさげて加代に会えばいいのか。

 三之助は立ちどまり、加代をじっとながめながら、云った。

「よそう、このまま帰ろう」

「え、どうしてです」

 茂平はとうぜん不服顔をして、三之助に問いかける。

「いや、帰るのは俺だけでいい。おまえは加代に会ってこい」

「しかし、そういうわけにも……」

 三之助は苦い顔をして、首を振ると、いま来た道を振り返った。

 その時――。

「おぼっちゃま?」

 その声に三之助は振り返りかけた身体をとめて、声のしたほうに顔だけをむける。

 そこに――、十間ほどもさきにある門の枝折戸を開けて、加代が立っている。こちらに顔をむけて、じっと目をすえるようにみている。

 そして、加代は、子供を抱いたままで、こちらにむかって歩いてくる。

 どこかはやる気持ちをおさえるように、走りだしたい気持ちをおさえるように、ゆっくりとした足どりで加代は歩いてくる。

 三之助は息をのむような気持ちで、その姿を見つめた。

 それはまぎれもない、加代であった。

 ちょっと肉付きがよくなり、以前の印象よりも、半まわりほども大きくなったような気がする。たまごのような形だった顔は、以前はとがったほうが顎だったが、いまは上下をひっくりかえしたように、まるい顎をしていた。

 農作業をしているせいだろう、顔は日に焼け、子供を抱いたその手は、皺の一本一本に土汚れがしみついてしまっているように、黒ずんでいた。髪もけっして昔のような美しさはなく、びんのあたりがところどころほつれているし、油っけのまるでない、にぶい輝きのつやをしていた。

 着物は色あせた山吹色の単衣ひとえで、袖も裾も端がぼそぼそにほつれていて……。

 そこにいるのは、どこにでもいる農家の女であった。三之助の幻想のなかにいた、神秘的な肉体をもった女ではなく、日々の生活におわれ毎日同じ家事仕事をくりかえし、少し人生に疲れをおぼえているような、ごく普通の女だった。

 それだけに、かえって現実味をともなって彼女の存在を実感した。幻想のなかの女ではない、真実の人間――加代がそこにいると思えた。

 加代は、ふたりの目の前まで来て、目をうるませ、焦点がさだまらないように瞳をふるわして、三之助を見る。

「やっぱり……、やっぱり、おぼっちゃんですね」

 加代は引きつった笑みを口の端に浮かべている。それは、懐かしい人にあえた喜びだろうか、そうではなく、会いたくない人間を目にした嫌悪感を隠すための愛想笑いだろうか、三之助には判断がつかない。

「すっかり、おおきくなられて……」

 三之助は声をだせず、ただ、うなずいた。

「お加代」

 三之助の後ろにいて、加代が気がつかないことに、ふてくされるようにして、茂平が声をかける。

「あ、茂平さん。茂平さんね。こっちはひと目でわかったわ」

「久しぶりにあって、ご挨拶だな」

 と茂平が不満げに云うのを、お元気そうで、と云ってうけながして加代は、

「ともかくも、さ、家にあがってくださいな」

 くるりとふりむいて家にむかって歩きだす。

 それでもためらっている三之助に、なにをしているのかという顔で振り返った加代が、

「ささ、こちらへ」

 とうながすように早口で云った。

「行きましょう、旦那様」

 と茂平も三之助の背を押すように云う。

 三之助はため息をひとつついて、歩きだした。


 庭をよこぎって、玄関に入ると、そこは広い土間で、その左手には十畳ほどの居間があった。その居間は、板敷きの真ん中に囲炉裏が切ってあって、その周りに、三之助たちは座った。

 加代は、まあ、本当になつかしい、と云いながら、自在鉤から鉄瓶をとって、急須に湯をいれている。

 子供は、茂平の膝の上で、おとなしく座っている。歳は三つくらいだろうか、男の子で、ものおじしないのは、母親に似たからだろうか、と三之助は思った。

 加代が、どうしてまた、と聞きながら、湯飲みに茶をそそいでいく。

 茂平が子供をあやしながら、ことの経緯を話しはじめた。

 三之助は、ふたりの会話を、囲炉裏の火をみつめながら、聞いていた。

 加代の声は、以前にくらべて、いくぶん低くなったようで、そのぶん、なにか落ち着いた優しさのようなものが、言葉のなかに含まれているようであった。

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