二の二
「しかし」と三之助は、また歩き出したのをしおに茂平に聞いた。「加代も三十を越えているだろう。どこかへ嫁いでいるんじゃないかな」
「いえ、加代は結婚はしとらんでしょう。もうこりごりだと云っとりましたしね」
「こりごり?」
「ええ」と茂平はちょっと意外そうな顔をして、「旦那様はご存じではありませなんだかな」
ああそうですな、旦那様がまだお若い時分でしたからな、と茂平はひとりで納得すると、昔の苦い経験をしぶしぶ思い出すような調子で語りだした。
茂平の話は飛び飛びで、時系列も行ったり来たりで、要領をえないところが多いので、要約すると、こうであった。
加代は、生まれた勝山村の先隣の稲島村に嫁いだ。
嫁ぎ先は、裕福とまではいかなかったが、土地持ちで生活に困窮することもまずない、すこし大きめの農家だった。舅はすでに他界してい、姑は多少嫌味なところもあったが、結婚生活はまずまずうまくいっていた。
だが、二年もたったころ、最初にできた赤子が、生まれてふた月ほどで夭折してしまった。
それから、姑とも夫とも、うまくいかなくなった。親子は子供が亡くなったのは加代のせいだと非難したのだそうだ。
しかも、次の年もその次の年も懐妊したのだが、二度とも流れてしまった。
ふたりの加代に対する優しさは、かけらさえもなくなった。丈夫な子供を産めない女をいたわるほどの、人間的な良識も教養もなかったのだろう。
姑と夫は流産のあとで、まだ体力も回復していない加代を、農作業に駆りだし過酷な労働を強いた。しかも、夫は、そんな加代の体調などお構いなしに、精のはけ口として彼女の身体を荒々しく、毎晩のように
加代は、しだいに、身体だけでなく、心までも病んできた。
このままでは殺される、とまで追いつめられた加代は、逃遁した。
実家に帰れば連れ戻されると考えた加代は、ほかに頼るあてもなく、小野の家に助けを求めることにした。
その農家から城下までは、三里ちょっとの道程なのだが、ほぼ一昼夜歩きつづけ、よろよろの身体で小野家に到着した。
夜中に、小野家裏にある茂平夫妻が起居する下人小屋の横の、裏戸を叩く音がし、茂平が恐る恐る戸をあけてのぞいてみると、そこに立っていたのは、
「まるで、死体が墓から這い出してきたみたいで」
と茂平は大仰に驚いたような顔で、その時の加代の容姿を語ったが、それはあながち、誇張したものでもないらしい。
こういう時、もう寝てしまったので、と遠慮して三之助の父に報告しないと、かえってあとで叱責されると考えた茂平は、すぐに父を起こした。
いささか、迷惑そうに起きてきた三之助の父であったが、茂平の話を聞き、加代の姿をひと目みると、
「まるで、あの時は、人が違ってしまったようで」
と茂平が語るほど、その婚家にたいして、普段声を荒げたことなどない父が激怒したという。
父は、夜が明けると、すぐに手を打った。
公事方に手をまわして、嫁ぎ先に離縁をさせる手配りをすると、加代には良い治療を、と城下でも評判の蘭方医を連れて来て、――もちろん診察料は高額だったろう――手当をさせた。
加代は、茂平の小屋で養生することになった。母屋で寝かせなかったのは、
――こんな姿を、ぼっちゃんにみせたくない。
という加代のたっての頼みだったからで、三カ月ほどほとんど寝たきりだったが、動けるようになると、
「寝たきりというのも、かえって、えらいので」
という加代の願いを聞き入れ、三之助の両親は、女中仕事を、楽で簡単なものだけではあったが、やらせるようになった。
三之助に再会したのは、このころで、その後、身体が充分に快癒するのに、さらに半年ほどもかかったのだそうだ――。
三之助は、はっ、とした。再会したときの加代の姿が心に浮かんできた。
――気づくべきだった……。
あの時、加代の肌が血管がすけるほど白かったのはそのせいだったのだ。百姓家に嫁に入って、あんな綺麗な手をしているわけがなく、まったく日に焼けていなかったことも不自然だったのだ。
そんな凄惨な経験をした加代を、俺は、ふしだらな目で見て、よこしまな思いを持ち、あまつさえ、凌辱しようとまでしたのだ。
俺はなんと愚かな人間なのだ――。
三之助は恥じた。
加代というひとりの、心をもった女性を、性の対象としかみていなかった自分をいっそう恥じた。
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