一の四

 小野家には、十年ほど前まで、加代という女中が住み込んでいた。

 加代は、三之助の妹のさちが生まれた後、肥立ちが悪るくて寝込んでいた母のかわりに、三之助の子守りとして雇った、勝山村かちやまむらの百姓の娘だった。

 加代は、まだそのとき十歳くらいだったろうが、くるくるとよく働く、闊達な気性の娘で、両親は気に入って、母の体調がもどってからも、そのまま女中として家におくことにした。その時に、それまで、かよ、と仮名で書いていた名に加代という漢字をあてたのも父だった。まだひとつかふたつだった三之助には、その時の記憶はもちろんない。

 だが、物心ついてからしばらくの加代の記憶といえば、叱られた記憶しかない。

 加代はものおじせずに、はっきりと思ったことを口にする性分で、三之助がいたずらをすると、おぼっちゃん、いけません、泥団子を人に投げるなんて、と怒る。おぼっちゃん、使ったものはもとあったところにちゃんとしまいなさい。おぼっちゃん、脱いだ着物はちゃんとたたみなさい、などと、主の息子にたいし遠慮会釈もなく、叱ってくる。

 両親もそんな加代をたしなめるどころか、加代が正しい、三之助が悪い、といつも加代の肩をもつ。

 そんな加代も、三之助が八つくらいのころに、ふと姿が見えなくなった。

 どこかの百姓の嫁に入ったのだそうで……。

 その時の、――加代がいなくなった時の記憶が、三之助にはまるでない。泣いたとか、悲しんだとか、反対に目の上のコブが取れてせいせいしたとか、なにか思ったはずなのに、まったくなにもないのだった。

 そして、五年が過ぎたころ、ひょっこりと加代が戻ってきた。嫁ぎ先に離縁されたというのは後で知ったことだった。

「おぼっちゃん、また今日からお世話になりますね」

 部屋まできて、敷居際で手をついて挨拶をした加代を見て、三之助の心臓が、どきりとひとつ、おおきく打った。

 ひさしぶりに再開した加代は、めっきり容姿が変わっていて、最初ひとめ見ただけでは、誰だかもわからなかった。

 以前よりも、ずっとふくらみをもった胸や尻、顔も目鼻立ちがしっかりとして、かつては女中というただの人だったのが、そのとき目の前にいたのは、色気をにじみだした、ひとりの女だった。

 血管が透けてみえそうなほど白い肌の、卵のような顔の、切れ長の目を笑って細め、ふっくらとした唇はつややかに、しっとりと言葉をつむぐ。

 あら、おぼっちゃん、ずいぶん大きくなりましたね。お勉学はしていますか、剣術はまだうまくなりませんか。

 その云いようは、まぎれもなく加代のそれであった。ことばの抑揚のいちいちに、かつての記憶が三之助の脳裏にあざやかな現実味をもって呼びおこされる。

 三之助は、加代の顔を見るのも気恥ずかしく、視線を下へ動かす。

 そこにある、膝にのせた白い指は、先にゆくほどツンと尖って反り返り、その反り方がなにか心のおくの心地よい部分を刺激するようで……。

 三之助は、ちょっとその指を見つめると、すぐに目をそらして、うん、とだけ、どうにかこうにか声に出して云った。

 では、と加代が去ってからも、三之助は全身、なにかわからない、ふわふわしたものに包まれているような気がした。高鳴る鼓動がおさまらない、顔がなぜか火照ほてる。

 女などは、とうぜん初めて見たわけではない。藩校の行き帰りにすれ違う町娘や、ちょっと婀娜あだな感じの武家の娘も、えんをふりまく芸者も、なんども目にしてきた。だが、今のいままで、いちどたりとも、こんなふうな、奇妙な感覚を味わったことはなかった。

 それが恋の萌芽だったのか、たんなる性の発芽だったのか、今になってみても三之助にはわからない。

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