空もよう
優木悠
その一
一の一
これはほほえましい光景をみるものかな、と三之助は、
「やあ、史絵さん、まるまる太らせて食べるんですか」
と気軽な気持ちで冗談を口にした。
きっと笑顔をかえしてくれると期待していたのだが、史絵は、その大きな丸い目をさらに大きく丸くして一瞬驚いたような顔をし、すぐに険しい目に形をかえてこちらをにらみ、
「まあ、しりません」
なげつけるように云うと、ぷいとそっぽをむき、下駄音もはげしく縁側から家にあがると、とめる
――これは余計なことを云ってしまった。
あとで謝っておかねば、と思いつつ、頭をかきかき、玄関先にたち、訪いをつげる。
すぐに、おう、あがってこい、と
そこには、自堕落にあおむけに寝ころんで脚を組み、座布団をふたつに折ったのを枕にして、新太郎が伸ばした腕のさきに持った
その大きく出っ張った腹を見ながら、三之助は、
「まったく、侍の自覚がまるでない男だな」
嫌味をひとつ云って、あぐらをかいてどっかりと座った。
「まったく、人の家にきて、いつもいつも諫言の手土産、ありがたいことだな」
新太郎が本から目をはなそうともせず云った。
「普請方はいいよな、昼日中からゴロゴロできて」
と後ろに手をついて、三之助はふたつめの嫌味を云う。
「ふん」と新太郎はひとつ鼻息、「日々足を棒にして城内外を見回り、修繕箇所が見つかれば、手続きに奔走し、人足集めに汗を流し……。日がないちにち部屋にこもって、そろばんをはじいていればいいだけの誰かさんには、俺の苦労はわかるまい」新太郎は、ちょっと首をひねってこちらをみて、「まあ、今げんざい暇なのは、みとめるがな」と苦笑する。
確かに、普請方は、気候がおだやかな季節なら楽なのだろうが、大風や大雨、地震が起きた後などは、目のまわるほどの忙しさになるようだった。しかも公儀とは違い、藩士の少ない小藩の
三之助の勤める勘定方は、一日じゅう屋内でそろばんや書類とにらめっこしていればよく、忙しいのも年三回の年貢徴収月くらいのものだった。
三之助は周りを見わたし、文机のうえに積んである本を適当に手に取り、横向きに寝ころんで頬杖をついて、
「お、八犬伝じゃないか。やっといいのを仕入れたな」
「ふん、馬琴か。馬琴はつまらん、なにが書いてあるのかさっぱりだ。小むずかしくっていけない」
「なら、くれ」
「ああ、もってけもってけ」
新太郎には江戸詰めの親戚がいて、その親戚が読んだ本を新太郎に送ってくれていた。その交流は、もう何年も続いていて、新太郎の部屋は読本だの、日に焼けて表紙の赤茶けた黄表紙だのが散乱している。邪魔でしかたがないので、興味のない本が届いたり、読み終わって飽きた本がでると、三之助を呼びつけて、恩着せがましく押し付けてくる。ていのいい処分役として三之助を使っているわけだが、三之助も本を読むのが好きな性分なものだから、呼ばれればほいほいこの家に足を運ぶのが常になっていた。
「それはなんだ」と三之助が聞くと、「一九だ」と新太郎が答える。「膝栗毛か」「そうだ」「面白いか」「まあ、な」
空談をしながら、三之助はぱらぱらと頁をめくっていたが、なんだ、この間もらったのから二、三巻飛んでいるじゃないか、と、おっくうそうに起き上がり、以前の続きはないものかと、文机の上を漁りはじめる。
「そういえば」ふと思いついたのを三之助は口にした。「物好きな新妻どのには、もう会ったのか」
「いや、でも遠くからながめたよ」
「どんなだった」
「どんなもなにも、普通だ。いたって普通、十人並みだ」
「そうか」
とそこで会話が終わってしまった。
三之助は目当ての八犬伝の続きを見つけると、文机のうえにひらいて読み始めた。
――あんな自堕落で、腹の出た無精者が、妻をめとるのだから。
世の中は理不尽きわまりないもんだ、何かがまちがっている、と内心ふてくされる気持ちだった。だが、そう思いはするものの、三之助は、まったくと云っていいほど結婚というものに興味がない。
いや、女というものに興味がもてないと云ったほうが的確なのかもしれなかった。理不尽だなんだと文句を云いながらも、もういくつかの縁談を断っているほど。
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