第10話 川島くんはどこへ…

刃渡り25センチの牛刀を持った川島くんがこちらに向かって歩いてくる。


私は緊張に身体が固まり動けない。


部長は私の1メートル後ろで「川島、落ち着け」と言いながら、窓に向かって後退りしているようだが、逃げ場は無い。ここはオフィスビルの6階だ。


川島くんが私に「並木さん」とかすれた声で呼びかけ

私は口がからからのくせに、ごくりと唾を飲んだ。声が出ない。

川島くんが目の前で立ち止まり、「すみません、並木さん」と頭を下げる。

私は動けない。

部長も動けない。

川島くんが顔を上げると目には涙がにじんでいた。

それほどまでに、私は川島くんを追い詰めてしまったのだろうか。

今、謝れば許してもらえるのだろうか。

川島くんは手に持った包丁を私の方に向ける。

そして、こう言った。

「すみません並木さん。この包丁は、ぼくが大事にしている包丁で、築地なんかで扱っている高級包丁なんです。ここを見てください。名前が掘ってあるでしょう。これが、高級包丁のあかしです」

私は静かにうなづく。

「この包丁を、買っていただけないでしょうか」

「ん?」

「恥ずかしながら、生活費をパチンコで使ってしまい、今、お金がぜんぜん無いんです。そして、今月休んでしまったので、来月の給料が入っても、ぜんぜん苦しいんです」

「は、はい」

「買ってくれますか?」

「はい」

「ぁぁ、助かった。ありがとうございます」

「助かった…」

「いくらで買ってもらえますか?」

「ぇっと…、」

「もとは4万円ぐらいするんです」

「じゃ、じゃあ2万円で…」

「え?そんなに?? いや、それじゃ悪いな…1万5千円でどうですか?」

「ぃ、いいですよ」

すると、川島くんが小脇に抱えた段ボール紙で包丁を包み

「ごめんなさい。ケースが無いんです。これで。すんません」と紙袋にしまったその包丁を渡してくれた。

私はまだ震える手でそれを受け取りカバンから財布を取り出し川島くんにお金を渡した。


私の後ろから部長がかすれる声で、「川島、世の中ではそれを銃刀法違反と言うんだぞ」と川島くんに注意した。





川島くんはその後、やはりこの職場を去ってしまった。

私の手元には彼から譲り受けた包丁が今もある。

高級包丁だけあって、本当に切れ味がいい。

一生もんの包丁だなぁと思って気に入っている。

だけど、心のどこかで「並木さん、ぼくの包丁、返してもらいに来ました」と、いつか川島くんが現れるのではないかと思っている。

川島くんは今もきっとどこかの厨房で働いているに違いない。

今度はうまくやってほしい。

根は真面目で優しくて器用だし理想が高く自分に厳しくて空気も読めるし決断も早い、とても良い奴だから。

もし、あなたの近くにいたら、確かにめんどくさいところもあるけれど、広い心で受け止めて、川島くんを好きになってほしい。

どうか、川島くんをよろしくお願いします。

              (おわり)

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