第11話
最悪の朝だった。目が覚めたのは午前九時過ぎ。二人はもう家を出ただろう。慌てて部屋から飛び出すと、朝食におにぎり二つと、昼食の麻婆春雨が置いてあった。ああ、どうして。なにも変わっていない。なにも変えられていないじゃないか。
ふと彼女の顔が浮かんだ。そうか、僕が変わる方法はそう多くはない。なにかを任されて、やれと言われて初めて行動に移せる。とてもじゃないが自発的には変えられない。十余年、積もりに積もった心の贅肉があまりにも動きを制限してしまっている。それでもせめてなにか……二人の為に、そして僕がやりたいと思える簡単なことでもいい。きっかけが欲しい。
「……そうだ」
僕はスマートフォンで検索を始めた。パソコンはついゲームをしてしまいそうだったから、僅かでも誘惑の少ないほうを選んだ。検索ワードは『料理 簡単 初心者』だ。せめて昼食を作ってもらわなくて済むようにしよう。少しでも二人の負担を減らそう。そう考えたのと同時に、彼女になにか美味しいものを食べさせてあげたいという欲があった。お世辞にもあの世界の……あの街の食文化はいいものではない。大抵が味気ない薄味で、クセのある食材が多いのか、ふたつにひとつは変なにおいがする。食べられないといったものではないが、少なくとも僕ら行きつけの食堂の料理で、これは美味いと思ったものは今のところない。街の人曰く、あの店は安くて不味いと定評があるらしく、あの店に彼女が妙に固執する理由もそれだ。結局お金が無いから良いものを食べられない。
ならば作ろう。毎日、毎食は無理でもたまになら。それに自炊の方が安く済む筈だ。この世界の二人と、あの世界の一人のために、僕が今この時出来ることは料理を勉強することだ。はてどんなものがあるか、ふむふむ……
僕の計画は半分頓挫した。当たり前だが、ここは現代日本。調べて出てくる料理の手順には間違いなく電子レンジ、オーブン、炊飯器が出てくる。二人の為なら問題ない。だが彼女には、あの世界ではとてもじゃないが再現できない。なにかないか。僕を底から引っ張り上げてくれた彼女に恩返し出来ることを探した。
気がついた時、もうお昼を回っていた。スマートフォンの画面は知らず知らずの間にソーシャルゲームの画面に切り替わって久しい。僕は空腹を認知して初めてその事実に気が付いた。ああ、まただ。僕はどうしてこうも集中力が無いのか。冷めた春雨をレンジで温めなおしている間だけまた料理を調べて、食べ終わる頃にはもうそんなことは忘れてしまった。
気付けばキル数を重ね、もう夕方だった。また何もしていない。というか今日何をしたかすら曖昧だ。なんとかパソコンをシャットダウンするのにまた一時間近くかかった。どうやら母さんはもう帰ってきている様だ。急いでリビングに向かう。
「ああ、アキちゃん。ただいま」
母さんはそんな呑気な挨拶をしてくれた。僕も出来るだけ優しい声でおかえりと言った。そうじゃない。僕は母さんに意を決してお願いをする。
「晩御飯、僕も一緒に作りたい。全部は無理だけど、せめて何かしたい」
母さんはうんうん頷いて買い物袋の中身を取り出していた。パックの豚肉に、人参。それと納戸からジャガイモと玉ねぎを取り出した。そうか、今晩は。母さんが袋から取り出したのはカレールーだった。
「アキちゃん本当に好きだったもんねぇ。今朝ケンちゃんとも話して、久しぶりに作ろうかって」
ケンちゃん、とは兄
答えは冷蔵庫から出てきた。さっきのバラ肉とは違う深くて小さいパックがふたつ。それから卵とパン粉。ああ、そうだった。子供の頃よくねだった、よく手伝った記憶がある。牛と豚の手作り合挽きハンバーグ。それを乗せたハンバーグカレーが大好きだった。母さんにはこんなおっさんも子供なのだと思うと余計に申し訳なくなったが、それ以上に懐かしさで心があったかくなった。
「まだご飯には時間があるし……そうだね。お風呂でも洗ってもらおうか」
母さんは全部お見通しらしい。僕はそれこそ子供の様に素直に頷いた。そのままお湯張ってお風呂入っちゃいなさい。と、よく子供の頃にも言われたセリフに笑って、涙が出そうなのを堪えて僕は昔より狭くなった湯船をスポンジで擦った。
何年振りだろう。いや、ついこの間も堪能したわけではあるが。この馴染んだ湯船に浸かるのはそれこそ十年ぶりだ。肩まで浸かってひと掬いしたお湯で顔を洗う。ん? なんだろう、ぬるぬるというか、よく見れば何か浮いている? 外していた眼鏡をかけると、そこに広がっていたのはちょっとした地獄だった。これは僕の体から出た垢だ。というか本当に垢か? ラーメンのスープか何かのごとくまるく油が浮いている。背アブラマシマシとはこのことか? そんなことを言っている場合じゃない。そうか、これか。母さんは手伝って欲しい半分。お前臭いからいい加減風呂入ってこいよというのも半分で風呂掃除を頼んだのだ。うーん、我が母ながら策士。しかしこれは酷い。とてもじゃないがお風呂とは呼べない光景だ。完全に出汁を取られている絵だ。洗おう。体を、頭を、全力で。
一度寸胴鍋……もとい湯船から上がりシャワーの前に座った。鏡に映る自分の姿の醜さにもう一度驚いたが、今はそれどころじゃない。シャンプーを三プッシュして頭を洗う。
「……ん、あれ?」
リンスと間違えたかな? もうワンプッシュ、今度こそシャンプーの字を確認して洗髪を再開する。うん、やっぱりさっきも間違えていなかった。泡立たない。人間、汚くなりすぎると洗剤の泡立ちにすら圧勝できるようだ。ではなく、子供の頃ふざけて指先にちょっとだけ乗せたシャンプーで頭を洗った時のように全く泡立たない。なにか白い、ベタベタしたものが髪の毛に纏わり付いているだけだ。一体僕はどれだけ汚れてしまったんだ、物理的に。
それでもと頭をこすり続け、そろそろ泡(?)を流そうと手を蛇口に向けた時、僕は悲鳴をあげそうになった。僕の手に真っ黒いうぞうぞしたなにかが大量に絡みついているのだ。無論正体は知れている。急いで頭を流し、大慌てで鏡を見た。
今日一番涙が出そうになった。だいぶ……キテいる。下ろしていればそうでもないが、搔き上げるとだいぶ持っていかれている。落ち込んで少し俯くともっと酷いものが目に飛び込んでくる。だいぶ……薄い。いや、まだいける……乾けば多分……
二回目の割と泡立った洗髪はかなり優しく丁寧に済ませ、これから風呂には毎日入ろうと決意した。体を洗っている時も相変わらず全く泡立たないし、ちょっと危険な量の垢がボロボロ落ちるし、しまいには排水溝の髪取りネットが詰まって水が溢れてきたが、無事また湯船に戻ってきた。あとでもう一回洗っておこう。そう思わせる湯船に。
二度目の風呂掃除と髪取りネットの取り替えを終え、僕はまた母さんのところへ戻っていった。思っていたよりでショックだった。と、母さんに告白したら、期待していた三倍は笑ってくれた。笑いすぎて
日付が変わった。もう二人は眠っただろう。僕にも久し振りに心地よい睡魔が襲う。ああそうだ、ハンバーグカレーを作ろう。もう一度彼女のところへ行ったら、きっと作ろう。喜んでくれるといいなあ……
僕はまた、彼女のモーニングコールで目を覚ました。ああ、やっぱり。またここへ来ると確信していた。さて、急ごう。待たせるといけないからと軽い体を起こし、不安になった生え際や頭頂部を触る。うん、こっちは問題ない。そういえば何か考え事をしていた気がするが……と、彼女の顔を見て全て思い出す。
そうだ。カレールーが無いや——
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