第10話
真っ暗闇の中、意識だけがぼんやりと覚醒を始める。瞼は重く、体はさらに重い。無機質な送風音、柔らかいベッド、そして嗅ぎ慣れた臭い。あぁ、また夢から覚めたようだ。
彼女のモーニングコール無しに今朝を迎えた。午前五時、なんとまぁ早起きなことだろう。あんなに軽くなっていた体もこちらではロクに動かせない。それでも踏ん張って、秋人の体をベッドから引き剥がした。
「……変わるんだろう?」
自分に言い聞かせる様にそう呟いた。アレが夢なのかどうかも定かではない。ただそれでも彼女に、僕の夢に誓った言葉をもう裏切りたくはなかった。動悸と息切れが酷い。このドアの外にまるで地獄でも待っているかの様な嫌悪感だ。僕は必死にそんな悪いイメージを振り払って、遂にそのドアを開けた。
まだ二人は眠っているだろう。変わろう、そう決めた時僕はまず二人に謝ろうと考えた。父さんの所へも行こう。だからどんなに居心地が悪くても二人を見送るまでは部屋には戻らない。不退転の決意で僕はリビングに向かった。
十分経った。そういえばお腹が空いてきた。二人が起きてくるのはもう少し先だろうか。何か食べようとキッチンを物色している時、僕の頭に妙案が浮かんでくる。
「朝ごはん……作ってあげたら母さん楽になるかな?」
ご飯は……まだ炊けてない。あと四十分後に炊けるようタイマーがかけられている炊飯器を確認して僕は今自分に出来る料理を思い浮かべる。レトルト? カップ麺? いやそうじゃないだろう。朝ごはんに相応しいもの、卵を焼こう。ハムエッグと、味噌汁があったら嬉しいかな? それから……ああ。そうだった。僕には料理のスキルはない。それは作れるとか作れないとかじゃない、どんなものが作られるのかを知らないと言う問題だ。母さんが作ってくれる料理を、なんの感動もなくただ飲み込んできたこれまでを反省する。せめて自分が食べさせて貰ったものくらい、ちゃんと覚えておけよと頭を抱えた。
仕方がない。せめて見せられるものを出そうと今自分の小腹を満たす分の卵を焼き始めた。そうしてからさらに思い知らされる自分の怠惰。これは酷い、酷すぎる。ハムは焦げて、卵は崩れて。塩胡椒も同じ所にばかりで味も見た目通り想像通りの酷い出来だ。そうか、僕は目玉焼きひとつロクに作れない男だったのか。
意気消沈とはこのことか。さっきまであんなに燃え上がっていたやる気の炎も、情けないやら悔しいやら恥ずかしいやらわけがわからない感情に鎮火されてしまっていた。これを食べたら部屋に戻ろう。一歩部屋を出て、自分のご飯を作っただけ進歩じゃないか。そんな毒のような思考を巡らせてしょっぱいスクランブルエッグをつついていると、背後で物音がした。
「アキ……お前……」
卵に必死で近づいてくる足音にも気付かなかったのか。恐る恐る振り返った先には驚いた顔の兄さんが立っていた。
「兄さん……うぅ……」
突然涙が溢れそうになった。もう十数年ぶりに見たであろう兄の姿。痩せてしまった。あんなに体が大きくてスポーツマンだった兄の頰が痩けていた。腕や脚もきっと成人男性の平均よりは立派だろう。それでもかつて追いかけていたあの背中に比べて随分小さくなってしまった。ニキビがちで赤らんでいた顔もすっかり落ち着いて、口周りは青く髭の跡が残っていた。
別にそんな兄の姿が悲しかったわけではない。そんなになるまで一度も顔を合わせなかった過去が怖くなっただけだ。そんな兄に何も出来ない自分が情けなくなっただけだ。
「ごめんよ兄さん……朝ごはん、二人のために作ろうとしたんだ。だけど……」
目玉焼きひとつロクに焼けやしない。それどころか無駄に音を立てて兄を起こしてしまったのだろう。声が震えるのを必死にこらえながら僕はこの期に及んで言い訳ばかり取り繕っていた。
「もういい。何も言わなくていい」
兄さんは僕の肩を叩いてそう囁いた。ああ、なんて情けないのだろう。遂に僕は泣き出してしまった。すぐ後ろではご飯が炊けたアラームが鳴っていた。
トン、トン。と、弱々しい足音が聞こえてきた。朝食を作る兄を側で見ていた僕の耳が確かにそれを感知した。
「……母さん……」
涙は堪える間も無く流れ出していた。大好きだった母さん。お世辞にも美人とは言えなかったが、運動会で兄弟の好物を目一杯作って笑って食べさせてくれた母さん。学校へ行かなくなった僕を心配して必死で説得してくれた母さん。蹴っ飛ばしてしまった、酷い言葉を浴びせてしまった母さん。こんな僕に毎日三食ご飯を届けてくれた母さん。白髪だらけになって、顔もしわくちゃになって、兄さんよりずっと、ずっと小さく萎んでしまった母さん。大切な、僕のたった一人の母さんがそこにいた。
「……おはようアキちゃん」
涙は止まらなかった。驚いた顔の一つもせず、変わらぬ優しい笑顔を向けて僕におはようと言ってくれた。母さんはずっと待っていてくれたんだ。あんなに酷いことをした僕を。こんなに惨めな姿になった僕を、毎朝ここで秋人が出てくると信じてくれていたんだ。
「おはよう……ごめん……ごめんよ母さん……」
やり直そう。やる気の炎はもう一度強く燃え上がった。もう彼女の、僕の抱いた眩しい夢の為だけじゃない。こんな僕を信じてくれた人の為にも。
兄に急かされて僕は茶碗三杯にご飯をよそった。刻んだキャベツともやしとウインナーを卵と一緒に炒めたチャンプルーのような大皿のおかず。それに昔から変わらないわかめと豆腐のお味噌汁。もう何年ぶりになるだろうかという家族の団欒がとても暖かくて、夢の中で抱いていた不安も全部吹き飛んでいった。チャンプルーは少ししょっからくて、いつも食べる味のバラバラなご飯の謎がこんなところで解ける。二人は僕を責めるでも急かすでもなく迎え入れてくれて、僕はそれに甘えるような格好になってしまったが、二人を見送るまでは部屋に戻らないという小さな目標は達成出来た。危なっかしい足取りの母さんを見送るのは少しハラハラしたが、まだ大丈夫と見栄を張る母さんを、多分笑って送り出せたと思う。
さあやるぞ。二人に任された朝食のあと片付けを終わらせて僕は昂ぶったまま部屋へと戻る。そしていつも通りパソコンの電源をつけてSNSでメンバーを募った。
違う、そうじゃない。変わるって決めたはずじゃないか。違う! やめろ! それじゃ何も変わらない! メンバーを集めた手前やらずには抜けられない? ふざけるな! じゃあなんで二戦目、三戦目と終えた今、人が集まるのを待っているこのタイミングで抜けない! 人が少ない時に自分まで抜けたら迷惑がかかる? そうじゃないだろう! 人がいればゲームが始まるじゃないか! やめろ! 動け! 変わるんだろう!
——変わってくれ——
僕は絶望した。気付けばもう夕方だ。きっとそろそろ母さんも帰ってくる。僕は一体何が出来た? 十八戦して十一勝。キル数はトータルでチームトップだった? そうじゃないだろう。なにも変わっていない。なにも変えられない。パソコンをシャットダウンしようと、ゲームを止めようと考えてからおよそ六時間強。僕はまた思い出せない時間を作ってしまった。
それなのに何故。僕は満足感を得ているんだ。朝二人とご飯を食べたらそれでおしまいじゃないだろう。もっとやることが、変えなきゃならないことがあったはずだ。だからお願いだ。
今すぐ布団から抜け出してくれ————
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