第8話


「それじゃ諸々よろしくね」

 そう言って手を振る彼女の背中を見送るのは、一体これで何度目だろうか。僕に課せられた使命は三つ。既存の名簿がどれだけ機能しているのかを確かめること。確認が取れた人から署名と登録をお願いすること。この二つは彼女から与えられた初仕事だ。そもそもこの大きな街で住民の名簿が無いわけもなく、ただそれも形骸化しかけていたと言うのがことの発端だったらしい。明らかに増えた難民と変わっていく街並みを追えていない、文字通りオワコン名簿になっているっぽい旧名簿と現在がどれだけ乖離しているかの確認と、本題の新名簿の作成だ。そしてもう一つは……


「地母神様……ですか?」

 ボガード氏の言葉をうまく理解できない。と言うのもそもそもこの国、この街の宗教についての情報が無かったのと、彼女の信心には疑う余地が無いと感じていたからだ。

「ああ。市長と地母神様には何かある。良くも悪くも、因縁と言ったところか」

 彼の言葉はとても根拠のない妄言とは思えなかった。それだけ真に迫った表情をしていたし、彼の態度は疑いよりも心配を匂わせるものだったからだ。

「おっと、もしお前さんがもう地母神様を拝してやまないってんなら気を悪くしたかもしんねぇ。もしそうなら悪かった。だが他所モン同士、外からでしか語れない話をしたいんでな」

「他所者……同士?」

 おうよ。氏はそう呟いて少し沈黙した。彼が僕を他所からの難民だと知っているのは別段不思議なことでも無い。いや、実際には少し違うのだけど。しかし彼の言う外からでしか語れない話というのには心を惹かれた。

「そうだ、まず確認するところからだった。お前さん地母神様はもう見……地母神様にはもう拝謁したか?」

 一度出しかけた言葉を飲み込んで丁寧に紡ぎ直す。きっとこれが大人の処世術だろう。つまり彼にとって地母神様というのは崇拝の対象では無く、しかしこの街の人にとってはとても大切な、偉大な存在なのだろう。ミラには中々聞けなかったことだ、この際ハッキリとさせておこう。

「えっと……実は地母神さまっていうのも、市長がやってる我らが父ってお祈りも分かってなくて……」

 氏は少し驚いたが、すぐに答えをくれた。

「この街の、いやこの国の信仰は二つ。大体のやつがもれなく両方を崇拝している夫婦神崇拝の宗教とでも言おうか。ひとつは天上に居られる我らが父よ、なんて十字架にお祈りする父神ふしん様と、もうひとつ。こっちが問題だ」

 天上に居られる、ふむ。彼女が口にしていた天に御坐すというのがこれか。十字架を見るにキリスト教なんかの一神教の様にも見えるが……

「地母神様ってのはお父上とは違う、本当に存在する人間のことだ。今は若い女がやってるが、昔は男がやってた時期もあったらしいし、それにいつどんなタイミングで交代すんのかもあやふやだ」

 信仰対象が二つ、というより民衆の代表として父神さまに使える役割だろうか。聖人や教祖、果ては教会の神父と本質は変わらない、信仰心のある者を纏め代表する人。話だけなら僕にはそんな印象だ。

「生まれたその時から選ばれてるわけじゃない。となれば地母神さまになる前に因縁があったか、あるいは……」

 ドアの向こうからガヤガヤと声が聞こえ始め、彼は話をやめてしまった。やはり大っぴらにできる話ではないのだろう。

「とにかく市長のことは頼んだぞ。私も彼女には世話になった身だ。出来れば力になりたい」

 そう言ってそそくさと出て行ってしまった。一度頭まで湯船に沈んで彼女の顔を思い浮かべる。ああダメだ、話をまとめようにも点が繋がらない。この世界の、この街の常識についての欠落がこんなに煩わしいとは……


 ボガード氏の言葉を思い返す。最後のひとつ、地母神さまについて知ることだ。幸い彼女とは別行動だし、これから街の人に会ってまわる。彼女からのお願いだといっても他所者相手では取り合ってくれない人もいるだろうし、話のきっかけ、相手に踏み込むきっかけに出来る話題としても申し分ないだろう。そうこの時は思っていた。

「ああ、ハークス市長が何か言ってたねぇ。小さい時から見ているけど、立派になったわねぇ……」

 一軒目のお宅でこんなことを言われた。なにもこれは特別なことではない、行く先々で同じようなことを言われ、しまいには彼女の昔話をされることも多々あった。中でも面白かったのは、日が昇りきって昼食までご馳走になったトパソ夫妻に聞いた話だ。

「あの子は小さい頃からお転婆でねぇ。畑仕事を手伝ってくれるんだけど、いつも張り切り過ぎて関係ないところまで掘り返しちゃって。泥だらけになってお芋を持ってくるんだけど、隣の畑のお芋だったりしてねぇ。ほら、あんたも覚えてるだろう、なんせあんたが育てた芋だったんだから」

 惚気なのかなんなのかわからなくなる甘ったるい話だったが、彼女がこの街の大人達に有名なやんちゃ少女だったのはよくわかる。というかどこに行っても彼女の自慢話を耳にして、もしかしたら彼女はこの街に伝わる座敷わらしか何かなのではないかと思うほどだ。

 彼女は愛されたが故に人を愛そうとするのだろう。と、なにか腑に落ちた気がした。

 日も傾いてあと数軒残すのみとなった頃、渡された地図を見てようやくあることに気付いた。このままいけば丁度一番最後に訪問するであろう街外れの大きな工場こうば。ボロが多い中で比較的新しい、筆跡が他と違う名簿のに書かれた名前はジー・ボガード。ここは今朝の錬金術師の工場だ。

「いらっしゃい……なんだもうそこまで発展してたのか。いいぜ、そこにある黒火蜥蜴の丸干しなんてオススメだ。二晩は元気になるぜ」

 ほう……いやいやいや。興味深い話だったが僕は二つの誤解を必死に解いた。なんだつまんねえ。と、心底つまらなさそうに吐き捨てた氏には流石にイラっときたが、彼女からの仕事を全うすることにした。それから……

「今朝の続き、ね」

 彼はそれっきり黙ったまま記入を続けた。僕としてはなんとしても彼の言葉の真意が知りたい。彼女が誰かに、ましてやこの街の人々の信仰に害をなすとは思えない。そして、彼の言った“彼女も地母神の候補の一人だった”という仮説の裏付けるものを知りたい。ここに来るまでに聞いた街の人々の答えが僕をそう駆り立てた。

「まぁいいだろう。こんな時間にもう客も来るまい。さてその前に……」

 突然ノスタルジックな表情を浮かべて机や瓶棚を撫で始めた。ミラが時たま見せる物憂げな表情は綺麗だと思ったが、自分とそう変わらないおっさんにされると割とキモい。キモかったが……頑張って言葉は飲み込んだ。

「まずは私が受けた恩の話。ここに来るまでにも散々聞かされたろう。そうだ、彼女についての自慢話をする」

 おっさんのしたり顔にとてもげんなりした。表情に出てしまっていたのか氏にひと睨みされ背筋を正す。それを見届けると、咳払い一つして彼はその自慢話とやらを始めた。

「私がこの街に流れてきたのは今から二年程前。なにやら街は賑わってたが、その時はなにせ命からがら。逃げ延びたばかりで周りを見る余裕なんてなかったからなぁ」

 あ、違うこれおっさんの昔話だ。気持ちよさそうに喋るボガード氏を止める手立てもなく、ウンザリしながら相槌を繰り返す。

「後に知ったことだが、その少し前に新しい地母神様が選ばれてたんだってな。まぁ失意のどん底で這いつくばってた私からすれば、どこに行っても飯が貰えることの方がよっぽど大切だったがね」

 はぁ、なるほど。僕はそれを繰り返す他になかった。

「この街に流れ着いてから十日は経った頃だったかな。子供が怪我したってんで医者を呼んで来るってのに出くわしてな。見るからに出血が酷いもんだから、私が手持ちの薬で応急処置をしたんだ」

 なるほど。で、その時助けた子供が彼女だった、と。よし終わり、閉廷、終幕。お願いだから帰らせてくれ。

「まあそんな顔しなさんな。お前さんも知ってて損のない話だ。そして応急処置を終わらせた私の元にやってきたのはひとりの少女だった」

 ん、読みを外したか。しかし彼の言う僕にも損のない話とは一体……

「話によると医者は丁度出払っててな。到着には時間がかかるとのことだった。だから私はどこかに工場がないか聞いたんだ。施設さえあれば子供一人救うのは訳ないと。そう、施設さえあればな」

 どこか暗い面持ちで氏は語る。

「この街には錬金術師が既にいた。と言っても廃業していたがね。だが残念なことに事が起きたのは商店街の大通りで、工場は街外れにしかなかった」

 ふと街外れの工場という単語に足下と周囲を見回す。彼は頷いてまた続けた。

「応急処置は応急処置だ。いつまでもは保たない。無力を痛感した時、彼女は目を輝かせて私にこう言ったんだ」

——貴方は腕の立つ錬金術師なのね!——

 その光景は易々と思い浮かべられた。彼につられて少し笑いながら、いつのまにか僕の方から彼に話を急かすようになっていた。

「笑ってしまいそうな事が起きたんだ。うん、信じられない事が起きた。彼女は施設もロクな道具も無しに子供を治療してみせたんだ」

 まるで魔法のような話だ。僕がそう言うと、彼は文字通り魔法だったと答えた。

「確かに彼女は治癒魔術を使っていた。だがそれだけじゃない。同時進行で霊薬を調合してみせた。全く話にならない、ポーションの錬成は研鑽を積んだ錬金術師が組み上げられた魔術工房や陣を引いて行うものだ。そう易々とできて良いものじゃない。私からすれば、アレはもう魔法の様だった」

 ポーション。いわゆる回復薬か。なるほどRPGでは容易に手に入るが、現実的に考えてそれの難易度が高いのは頷ける。

「そして治療を終えた少女は私にこう言った」

——私の代わりに街の人を助けて欲しい——

「全く重荷が過ぎる。彼女に案内されたこの工場も、その時は最低限の設備さえないボロだった」

 はて、そんな少女をどこかで見たような……

「私は救われたのだ。子供ひとり救えない絶望からも、もう誰の役にも立てない失意からも」

 そう言って彼は棚の間から古い板を取り出した。そしてそれを自慢げに見せつけ、話を締めにかかった。

「ミラ=ハークスというのはかつていたこの街一の天才錬金術師の名前さ」

 アトリエ・ハークス。拙い字でそう書かれた看板は、埃一つない綺麗な姿だった。

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