第7話


 頭がクラクラする。突然倒れたことや日頃の不摂生、至近距離で嗅いだ女の子の汗の匂いとかは関係なく、ただちょっといい右ストレートを貰ったというだけだ。

「はぁ、しかし本当に襲う前に引き返せてよかったよ。いやその、申し訳ないと反省はしております」

 グッと力を込められた握りこぶしに、僕は軽口の言葉尻をすぼめていった。失言だったと反省するとともに、こういうとこに改善点が多すぎることを痛感する。

「でもこれからも同じような人を相手する機会は増えるわけだし、やり方は変えたほうがいいんじゃないか?」

「まぁ……そうね。身の危険を感じたのは事実な訳だし」

 何を言っても墓穴だな。ひたすらに平謝りする僕を彼女はけらけらと軽く笑ってのける。無邪気にしていれば歳相応に幼く見えるのだが、先にも見たあの精神力の強さは責任感に由来するものなのか、はたまた……

「そんな度胸なんてないって改めて痛感したよ。こんなのでも秘書が務まるのか?」

 沈黙が嫌で分かっていてもつい軽口を叩いてしまう。意外なことに彼女は驚いた表情をして黙りこくってしまった。僕はしまったと思った。そう文字通りに頭の中でしまったと言ってしまう程にしまったなのだ。受け取り手からすると秘書をやる気がないようにも聞こえるセリフだった。慌てて訂正を入れようと泡食うが、どうもまだ口が回らない自分にほとほと呆れ返るばかりだ。

「……人を傷つけるのに度胸は必要無いわ。あるのは背中を押した何かと、押された勢いだけ」

 それもまた意外な言葉だった。時たま見え隠れしていた彼女の大人びた表情に、綺麗だと思う反面ふと不安を覚える。

「アンタは確かに何かに背中を押されて、でもそこから踏みとどまった。ギリギリだったけどね」

 そんな考え方も出来るものか。感心半分とまた不安を半分覚えた。なんというか、他人のことは大仰に捉えるくせして自分に関心が無いというか、どこか他人事のように扱っている様に見える。責任感などとは縁無く生きてきた僕とは対極過ぎて、イマイチこの不安に現実味を感じない。

「それじゃ今日は帰りましょうか。本当は色々見て回ってから仕事を選んで貰う予定だったけど、もう必要無いものね」

 そう言って彼女はベッドに座り込んでいる僕に手を差し伸べた。本当は逆な気もするが、僕はその手を取って立ち上がる。やっぱり力あるよね。なんて言葉を今度こそ飲み込んで、僕は彼女と並んであのボロの公民館へと帰って行った。部屋に戻ると彼女は僕に何枚かの羊皮紙を、サイズ的にはB4より一回り小さいだろうか。ものもさっきの契約書に比べてよくない紙とペンとインク瓶を渡してきた。

「それに名前、生まれ年、性別、住所……はここでいいか。それから職業に市長秘書って書いておいて」

「えーっと、なにこれ住民票?」

 僕のそんな言葉にミラは目を輝かせた。一体どこに心惹かれたというのか。とりあえず名前だけでも……と、ペンを握った所で、この世界の文字が読めても書けないことを思い出す。そのことを彼女に切り出そうとした時、ずいと身を乗り出す彼女に出鼻を挫かれてしまった。

「住民票! いいわね、それで行きましょう! えへへー、住民票……うん良い!」

 あぁ、そうか。今彼女は新たにこの住民の名簿を作ろうとしていたのだった。街の人々をきちんと管理し、街という大きな組織の運営を簡便にする為に。名前など別になんでもよかったろうに、ぴったり当てはまる言葉が飛び出してきたものだから変に興奮してしまったのだろう。

「あー、えっと……ごめん。ちょっと書くの手伝ってもらえるかな。その……」

「……ああ、良いわよ。私の部屋に来て」

 やはり心苦しい。きっと彼女は僕を他言語圏からの難民と思っているのだろう。いや、その点に関しては間違いでもないのだが。しかしどう説明する? 自分が別の世界からやって来た。など、それこそまたショックで頭がおかしくなったと抱きつかれる案件で……素直に打ち明けてみようかな……

「さ、座って座って」

 重要なことを馬鹿みたいに考えて、女の子の部屋というものにドキドキしながら上がりこむと、ある意味期待通りの見覚えのあるボロ部屋が目の前に広がった。違いがあるとすれば机が多少立派で、布団がよりボロで、床の傷みが殊更ひどいくらいか。

「言わんとすることはわかるわ。アンタもそのうち慣れるから……」

 世界が違えば高校生な彼女のこれまでの苦労が計り知れない。ふと目頭が熱くなるのを感じたが、堪えて彼女に文字を教わる。成る程、全く分からない。自分が書いた文字列が読めて意味がわかる、その理由がわからないせいでひどく混乱するが……あまりにも僕が知っている言語体系……もっとも中学英語もままならないのだけど。そう、アルファベットともかけ離れすぎていて、どうにもしっくりこないのだ。

「そうそう……そう、うん。よし、こんなものね」

 彼女からすれば読めて書けない僕は、手本を示せばすぐに出来る楽な生徒だったかもしれない。が……うーん、これは早速取り組むべき課題が見えたかもしれない。

「それじゃ私は明日の準備をするから。アンタは早く寝て明日に備えること。明日からはもう私の秘書としてバリバリ働いてもらうからね」

 そこはかとないブラック臭に不安を覚えながら、僕は彼女に手を振って部屋を後にした。まずはここのリフォームから手を付けるべきではなかろうかと思わなくもなかったのは、頭から浴びた冷水をカビ臭いタオルで拭いている時のことだ。明日もまた朝から教会に行くのだろうかと考えながら目を瞑ると、僕は驚くほどあっさり眠りについた。


 翌日、僕はまた彼女の壁越しモーニングコールで目を覚ました。より明るい声色に全てを悟って大急ぎで支度する。やはりあれは彼女にとって大きな楽しみらしい。

 今朝の礼拝の最中、あの小さなシスターに睨まれたのを彼女に問われたこと以外昨日と同じ……いや、今度は寄り道もハプニングも無しで一番風呂を堪能する。昨日と違ったのはこの後だ。人が増え始めるよりも前、昨日は見かけなかった現実の僕と同じくらい、三十前後の男がひとり入ってきた。そりゃあ共同浴場だから人は入ってくるのだが、その男は真っ直ぐ僕の方へとやってきた。僕のプライドが著しく傷つけられることとなったので、出来れば腰に何か当てていて欲しかったが。

「お前か、市長のお引きになったってモノ好きは」

「お引き……ええ、ミラの秘書をやることになりました。えっとアギトです」

 よし上出来。まず名乗る、これは徹底しようと昨晩考えていた。漫画なんかでよくある“まずは自分から名乗るもんだ”というセリフは、要は名乗ることが礼儀に繋がるということの証左にならない。それに不信感を与えない、話の導入として違和感がない。完璧だ、完璧すぎる。僕はこの世界で市長秘書としてやり直すと決めたのだ。

「おっと申し訳ない。私はボガードというもんだ。街外れに工場こうばを持っている、この街イチのしがない錬金術師だ」

 れんきんじゅつし。聞き慣れた聞き慣れない単語が飛び出した。しかし歴史的に見ても化学者をそう呼んでいるような時代や国があってもおかしいことはなく、ここが異世界だからといって安直にファンタジー的な錬金術であると断定するのは……

「アレはちぃと腕っ節が立つからな。もし必要なら増力の魔薬でも、大型魔獣をも昏睡させる毒針でも融通してやる」

 思いっきりファンタジーだった。というか魔獣の時点である程度察するべきだったが、この世界は幾分かファンタジックな世界観らしい。街中にあるこの風呂だって案外……

「……んで、今日は頼みがあってな。なんとかアイツと離れて二人で話ができる機会を伺ってたんだが、まあこんなにあっさり行くとはな」

「頼み……ですか?」

 少々ストーカーチックなことが聞こえたが……今は気にせずに話を進めることにした。

「ああ、率直に言う。アレを、ハークス市長をしっかり見張っててくれ」

「見張る……ですか」

 確かに彼女の献身については危なっかしいと僕も思った。誰か付いていなければ、昨日だって僕にもう少しの力と欲望に忠実な心があればどうなっていたか。

「わかりました。彼女が無理し過ぎないようサポートして行くつもりです」

 何事かとも思ったがなんだ、ただの近所のおじさんのような心配をしていただけか。確かに彼女なら街の人々に愛されているし、頑張っている姿も知れ渡っているだろう。ひとりで頑張っていた彼女に見知らぬ秘書が出来たんで、釘を刺しに来たと言ったところ……

「違う、そうじゃない。地母神様のことだ」

 ボガードさんの話は意外な方向へと舵を切っていった。

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