第6話
彼女を疎まないでくれ。それはお前に向けられた優しさじゃない。
彼女を蔑まないでくれ。お前が見下しているものは彼女じゃない。
彼女を——僕の夢を笑わないでくれ————
「ッッ!」
誰でも良かった。でも彼女が良かった。彼を否定してくれる誰かが欲しかった。唇の端が切れて温かいものが舌と歯茎に触れる。彼は……いいや。僕は、彼女が拒絶してくれることを望んでいたんだ。この夢は僕の都合で、僕の為に、僕が喜ぶことだけを詰め込んだ甘ったるい夢なんかじゃないと。彼女だけは偽物じゃないと、そう言って欲しかっただけなのだ。
少女は俺を拒まなかった。だからもう止まれない。自分がどれだけ醜い、おぞましい顔をしているのかとんと見当もつかない。怒りを向けるでも、憐れみから体を許すのでもない、ただこちらを見つめ受け入れる覚悟をした目。怒って欲しかった。憐れだと貶んで、施しに甘さを振りまいてくれる方がよっぽど良かった。
上着を剥ぎ取ってそこで手が止まる。これは傑作だ。そうだ、俺はここから動けないのだ。何も知らないから出来ないのではない、何も出来なかったから知らない。なんでもいい、早く彼女を汚してこんな夢から醒めてしまいたい。彼女の顔に目をやって、僕は間違いに気付いた。
「……ぁあ……っ」
やっと涙が溢れ始めた。彼女は信じてくれていたのだ。紅潮させた頰を震わせ、息を殺して。大きな瞳が揺れるのを見てようやく気付けた。
「……わり……たい……っ! 変わり……たい…………」
みっともなくボロボロ泣いて僕は必死に言葉を絞り出した。
「変われるわ。貴方は優しいもの」
ふわりと彼女の細い腕が僕の頭を包んだ。またその優しさに甘えることをもう恥とは思わず、僕は年甲斐もなくわんわん泣き喚いていた。
きっと長いこと喚き散らしただろう、僕はようやく彼女の腕の中から立ち上がった。そして体を起こしてベッドに座り直した彼女と正対して、小さく一歩だけ退がる。
「……ごめん! 色んなこと、謝りきれないけどとにかくごめんなさい!」
三日越しにして僕はようやく謝るという最低限のことを成し遂げた。もちろん許されないこともしたし、自己満足なこともわかっていた。
「いいわよそんな……ううん、そうね。わかった、条件付きで許してあげる」
ゆっくり頭を挙げた先には手を差し出した彼女の姿があった。
「秘書、やってくれる? もしやらないなら、容赦なく怒るから」
やっぱり都合が良すぎる。僕は浮かびかけたそんな疑念を振り払った。もう、覚悟を決めたから。
「なにも……なにも出来ないから。苦労するから、後悔するぞ」
精一杯気を張って、また泣き出さないように彼女の手を取った。すると彼女はいつもの無垢な笑顔ではない、不敵な笑みを浮かべて僕の腕を思い切り引いた。
「ちょっと書類取ってくるから! 横になって大人しくしてなさい!」
思い切りベッドの上に押し倒され、そんなセリフを残して飛び出していった彼女の後ろ姿を目で追った。しかし……
「これ、本当に襲ってたら返り討ちに……」
じんじん痺れる右手の感覚に背筋が冷たくなった。
時間にして五分強、息を上げた彼女が帰ってきた。紅潮した頰、荒い呼吸、にじむ汗。うーん百二十点。彼女に出会ってから活発元気っ娘が小生の中で勢いを増していますぞ。
「じゃ! これ、書いて!」
そう言った彼女が手にしていたのは新しい、立派な羊皮紙だった。そこには既に見覚えのない文字列が刻み込まれ、所々に空白があって。ぱっと見でも契約書の様なものだとわかった。そして最も驚くべきは、その見覚えのない文字を、僕がなんの引っ掛かりもなく読むことができたことだが……夢ならそう違和感もなく、異世界転生モノには割とありがちな展開なので放っておくことにした。困らないし、むしろ読めない方が困るし。
「えーっと……これでいい?」
穴埋め式の契約書にサインすると、彼女は目を輝かせてそれを大事そうにしまい込んだ。
「嬉しそうだね……随分……」
「ん? んふふ、そうかな? そうね」
その反応は正直に言って嬉しかったが、僕を秘書にしたことよりも他に嬉しいことがあるように見えた。つまり……
「もしかして……市長秘書ってとっても忙しい……?」
「んー、半分正解かな。正直めっちゃ忙しかったから、人手が嬉しいのもあるけど……」
そこはかとなく漂うブラックの匂いに戦慄する。というか社会経験なしの男に務まる仕事なのだろうか……
身を震わせてまだ嬉しそうにしている彼女の次の言葉を待った。もったいぶる様に、彼女は緩んだ笑顔でえへへとかうふふとか繰り返す。かわいい。
「私が市長になって新しく始めたこと、その第一号なんだ。この契約書」
新しく始めたこと? どうもおうむ返しの癖がある様な気もしたが、僕はそれくらいしかまだ会話を続ける術を持たなかった。
「そう。街の人がどんな仕事をしているかっていうのを、ちゃんと名簿にして管理しようと思ってね。別にそれですぐにどうなるってことでもないけど、アンタみたいに他所から流れてきた人が働く場所を提供しやすくなるでしょ?」
あー。と情けないことに間抜けな返事をするので精一杯だった。街の経済や商業の管理と言ったところだろうか。ふとハローなんとかという名前が浮かんだが、僕はかき消すように頭を振った。
「増える一方だしね、他所から逃げてくる人も。ただ避難先として受け入れてるだけじゃこの街も疲弊するばかりだし、彼らにも生きていく活力を取り戻す場所を提供してあげないと……」
微妙に心を抉られる。彼女の言葉は間違いなく真理だろう。打ち込むものがあればある程度の不安は安らぐし、娯楽の少なそうなこの世界において労働は気を紛らす重要な要素の一つだろう。それはそれとしても心が辛い。
そしてふと一つの疑問を彼女に投げかけた。他所から“逃げてくる”人とはどう言うことだろう。僕は例外として、彼女の言う他所というのは街の外、つまり他の町や村、あるいは外国になるのだろうが。逃げるというのは一体……
「……そう、ね。えっと……落ち着いて聞いてね? もう大丈夫だからね?」
ああ、そうだった。驚きと、しまったと言わんばかりの苦い感情がころころと彼女の表情を変える様を見て、まだその誤解も解いていないのだったと思い出す。必死に言葉を選んでいるその姿に非常に申し訳ないと思いながら、四苦八苦する彼女の言葉を頭の中で反芻する。
「えっと、ここ十数年で随分情勢も変わったじゃない? だからほら、増えたっていうか、減ったっていうか……アンタもその……減っちゃったことの被害者なわけじゃない……?」
……ああダメだ、全く要領を得ない。仕方ないか……
「お、俺ならもう大丈夫だから。はっきり言ってくれていいぞ」
眉間にしわを寄せ、目を瞑ったり頭を抱えたりしながら彼女は真夏のエアコンのように唸り声を上げる。そして……何を思ったか僕に抱きついてきた。
「ちょっ、ミラ⁉︎」
「辛かったら手あげてね。大丈夫、ここは安全だからね」
そんな歯医者みたいなシステムある⁉︎ 困惑するこちらなどお構い無しに彼女は話し始めた。
「アンタも知っての通り、最近じゃ人間側がめっきり不利になってる。ここは土地柄もあるし、地母神さまの加護もあって比較的安全だから、街を——家族を失った人が逃げてくることが多いの。ううん、失う前に逃げられた人も来る。だからこそより堅牢で、より過ごしやすい街にしないといけないの」
正直いつもの甘い匂いに汗の匂いまで混じって、しかもそれが超至近距離っていうか密着してるもんだから話なんて聞いてる余裕はないのだけれど。彼女の話の、まず前提が僕には理解出来ていなかった。人間側? 地母神さまの加護? とにかく僕はそれを彼女に説明して貰おうと、話をぶった切って切り出した。
「ごごごめん! ちょっと話が見えなくて、その人間側ってなにかな? まるで人間じゃない側があるようだけど。あと出来ればちょっと離れ——」
彼女は驚いた。そしてその後に思い切り顔を歪ませて、さっきより強く抱きついてきた。そして震えた声でごめんねと呟いてからまた素っ頓狂な話を切り出した。
「勇者様が死んで、魔獣達の長が人間の国に侵攻を始めたのが十六年前。ちょうど私が生まれた年よ」
ふと初めて彼女に出会った時のことを思い出した。冒険者、戦争、魔獣。彼女の言葉の節々に、ここを異世界だと思わせた発端があったことを。
「もしかしたらアンタは違う、別の理由であそこに倒れていたのかもしれない。だから落ち着いて聞いてね。もう幾つもの国が攻め落とされて、何万もの人が犠牲になったわ。そんな惨劇から逃げることが出来た人達を、私は、この街は助けたいの」
彼女が僕によくしてくれる一端を垣間見た気がした。この小さな少女は身の丈に合わぬ責任感を背負って生きているのだ。そりゃあ都合よく感じる筈だ。彼女は逃げてきた人のために尽くそうとしていたのだから。
「えっと、ありがとう。無事全部分かった」
僕から離れ、彼女は不安そうな顔でこちらを見つめた。僕はすぐに距離をとって身を屈めた。
「だから、私はアンタの味方よ。そしてアンタにも同じ様に、苦しんだ人を助ける手助けをして欲しいの」
そう言い切った彼女の眼差しは僕には眩しかった。まだ直視出来そうにないが、僕はその気高い理想に助力したいと思った。分かった、俺も出来るだけのことをやってみる。そんな煮え切らない返事にも彼女は目を輝かせてありがとうと言ってくれた。それはそれとして僕は彼女にどうしても言っておかなければならないことがあった。
「で、出来ればあんまり密着するのとかは……その困惑するし…………反応する……」
膝を抱える僕を見て、顔を赤くするのが先か、鉄拳が飛んで来るのが先かはもう覚えていないが……ああ、そういえば。貴方がアンタになったの。距離が縮まった感じがしてちょっと嬉しいな。
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