第5話
遠く、遠くで爆発音が聞こえる。昨日とは違う、洗練されたチームワークを以て俺達はみるみるうちに敵拠点に侵攻している。撃て、撃て——撃て! いつもより言葉少なに、それでも粗の出ぬ統率のとれた面白みにすら欠ける圧倒的な戦況は、僕にあの夢を思い出させる。誕生日の翌日、アギトは秋人に戻り、やり直しの儚い夢はとうに消えた。
乙。そうチャットに残して俺は回線を切る。あまりにも簡単すぎたミッションは飢えた心を更に渇かせる。もう一戦、もう一戦と何度でも続けようと叫ぶ俺と、そうは動いてくれない僕の体との温度差にただやる気だけを削ぎ落とされていた。
ああ、なんて悪夢だ。夢でまであんな苦しい思いを、屈辱的な思いを何故しなければいけないのか。怒りか悲しみかわからない興奮の抑え方など一つしか持っていない。AoWをシャットダウンしたパソコンの、新しいフォルダ(6)をダブルクリックする。ひどく虚しさに包まれても俺にはそれしか無かった。わずかな勝利の高揚と、やり場のない煩わしいだけの感情の昂りをいつも通り吐き出す。
ああ。なんて悪夢だ——
彼女の顔が思い浮かぶ。鮮明に焼きついたあの明るい笑顔が、綺麗な体が、穏やかな街並みが。こんなにも苦しいならあんな夢見なければよかった。どうしてあんな甘い夢を今になって。知らなければ焦がれることも無かったのに——
一日が長い。昨日だ。昨日やっていたことなんだ。当たり前に消費してきた一日の使い方が思い出せない。俺は昨日まで何をしていた? 何も思い出せない。違う、何も成してないから探せないのだ。十六年前、AoWと出会う前の頃の様に。ただ震え、布団を被り、意識が消えるのを待ち続けた。
空腹感に目が覚めた。深夜の二時半、慣れたつもりの孤独感に押しつぶされぬ様、SNSを開いてアクティブな相互フォロワーにカップ麺の写真を送りつける。
『あああああああ‼︎』
そんな返事が返ってくる。飯テロツイに反応してくれる数人がとても遠く感じて、今からゲームしようと声をかけた。流石廃人アカウントのフォロワーだけあって、会話の外からでも参加表明のリプライがわらわらと着いてくる。楽しい、楽しかった。寂しくない、寂しくなかった。怖い、どうしても怖い。朝になって解散すると、また自分が何をしていたのかわからなくなった。
ドアを叩く音がする。ああ違う、彼女じゃない。これは母さんが朝ごはんを持ってきてくれたんだ。だから、お願いだからもうあんな希望を抱かないでくれ。また布団の中で震え続けた。
父はもういない。母ももう体が悪いのだろうか、ご飯がやたらしょっぱかったり、味気なかったりする。そして僕には兄がいる。僕と違ってしっかりしていて、今こうやって食べるご飯だって兄が働いて稼いだお金によるものだ。母さんもパートには出ていたが、今どうしているかもわからない。そういえば兄さんはこの十六年、僕を一度も責めなかった。彼女のあの異常な優しさは、兄さんのそんな姿を反映していたのかもしれない。僕はあの夢に、とにかく納得出来る理由を付けたかった。
まだ昼にもならない。後どのくらいの日数消費すれば元の薄まった日常に戻れる。気付けば過ぎた十余年に対して、昨日今日の二日間が長過ぎる。歳をとると時間の経過が早くなるなんてのは嘘っぱちだ。
もう耐えられない。僕はトイレとたまのシャワー以外で初めて部屋を出た。一歩外に出たらまた彼女に会えるかもしれない。やめろ。もうそんな幻想なんてうんざりだ。お願いだから、このどん詰まりの現実にまで淡い期待は湧いてこないでくれ。三十年暮らした家の見慣れない姿に戸惑いながら、誰もいないリビングまでやってきた。そこには誰もいなかった。そうか、母さんは今も働きに出ているんだな。僕は居たたまれなくなって早足で部屋へと戻った。
比喩でもなんでもなく、僕は布団の上で仰向けになって天井のシミを数えていた。震えて待つことも出来ず、今この時に干からびながら死んでいけたらと絶えず考え続けた。お昼ご飯に、と置いていってくれた母さんのしょっからい野菜炒めももう食べてしまった。涙も出なかった。
ガサガサと風に揺られて葉のこすれる音がする。外の音にしてはあまりにも近く、窓を開けた記憶も無い。確認しないとな。と、考えるだけで、瞼を開けようとはしなかった。左手が温かい。ああ、スマホゲーしながら寝落ちしたのか。落として壊すと事だ、ちゃんと枕元に置いておこう。グッと握ると、それは電子機器とは思えない柔らかな感触だった。
「——ト! アギ————」
声が聞こえた。女の子の声。可愛い声だが、僕の好みとは少し違う。明るくて通りのよさそうな、でも……そうだ、うん。彼女には似合わない、とても不安そうな声色だ——
甘い香りがした。柑橘類のさわやかな香りが混じった、優しい香り。僕はこれを知っている。ああ、やめてくれ。もう止してくれ。お願いだからその優しさは僕に向けないでくれ——
「アギト! よかった、気付いたのね。気分は悪くない? 体は痛くない?」
またこの夢に帰ってきたようだ。僕の手をぎゅっと握り、その大きくて綺麗な目で彼女は僕の顔を覗き込んでいた。まるでお節介の雨あられの如く矢継ぎ早に繰り出される彼女の問いに、僕は無言で頷いた。
「……はぁ、良かったぁ……先生は異常はないって言ってたけど、心配なものは心配だったんだから」
やめろ。まるで母さんのような温かさを俺に向けるな——やめてくれ。彼女を疎まないでくれ——
「突然倒れたんだもの、本当に焦ったわ。しっかし私でも背負えるなんて、もっと鍛えた方がいいんじゃない?」
やめろ。兄さんと同じような優しさを向けるな——やめてくれ。彼女を蔑まないでくれ——
「……それからごめんなさい。お医者の先生は、過度のストレスによるものだろう、って。ダメね、気を使っているつもりになって、貴方に無理をさせてしまいました。本当にごめんなさい」
やめろ——やめてくれ——
都合のいい夢の分際で、まるで人間のように振る舞うのはやめろ——彼女を————
「……アギト? っ⁉︎」
俺は彼女の襟元を掴んでベッドの上に引き倒し、そして馬乗りになって彼女の両手を頭の上で抑えつけた。驚きと恐怖の入り混じった様な彼女の表情は、俺の嗜虐心をさらに駆り立てる。
「ちょ、ちょっとアギト? どうしたの突然」
困惑に目線を泳がせて、震えた声で彼女はそう言った。泣き叫ぶでも暴れるでもなく、彼女はこれまで通り俺に都合のいい選択を繰り返す。
「うるさいんだよ……」
ボツボツと音の割れたラジオみたいな声が出た。滑稽だ。少女一人相手に馬乗りになって抑え付けて、抵抗してこない相手にさえどもって言い淀んでしまう。
「お前は、この街は、結局夢なんだろ? 都合のいい、俺が傷付かないように刺抜きされた悪夢だ」
自分がどんなに醜い表情をしているのか見当もつかない。俺は——秋人は抵抗するアギトを抑え付けて少女に顔を寄せる。
「アギト……ねえ、どうしたの? もう貴方を襲った脅威はここには——」
無意識に彼女を抑えていた手を離して代わりに口を塞いだ。もううんざりだ。その甘ったるい毒はもううんざりなんだ。
「なあ、お前は俺の都合のいいように動いてくれるんだろ? だったらさ……」
——やめろ、やめろ、やめてくれ! 違う! 彼女は——
「一発ヤラせてくれよ。別にいいだろ、所詮夢の中の人形なんだから」
俺は両手を少女から離した。ひどく傷ついたような歪んだ表情の一つも見せず、彼女は顔色一つ変えず俺をまっすぐに見つめていた。
「……ええ、いいでしょう。それで貴方の気が済むのなら」
怒りでも哀れみでもない真っ直ぐな瞳で彼女はそう答えた。
口の中の鉄の味は無視して俺は彼女の服に手をかけた——
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