第4話
上機嫌なミラから、今日は朝から良いところに行くわよ! などと言われ、期待半分に付いて行った先はまたしても教会だった。昨日の彼女の行動から熱心な信徒なのだろうと感じていたが、まさか今朝の巡礼が良いところ……なのだろうか。
「おはようございまーす」
昨日より空いた堂内に、昨日より大きな挨拶がより長く響き渡る。気持ち高くなっている声色を鑑みても、やはりこの“朝に来る礼拝”が彼女にとって特別なものであることは明らかだ。
「おはようミラ。丁度沸かしたところだよ」
「おはようございます司祭様」
沸かした? 妙齢の神父の言葉に引っ掛かりを覚えながら、急ぎ足で十字架のもとへ向かった彼女の後を追った。ミラは僕の到着も待たず膝をついてまた唇を撫でる。
「天に
彼女は僕が思っていたよりもずっと信心深くない、罰当たりな信徒だった。もはや流れ作業一歩手前の祈りを済ませると、彼女は一目散に教会から飛び出して行った。微笑ましげに笑う神父に一礼して僕も急いで後を追う。彼女が飛び込んで行ったのは小さな……別館だろうか。僕が表に出てその小さな石造りの建物に気付いた時には、ドアを閉める彼女の背中くらいしか映らなかった。良いところというのが神父の言っていた沸騰させた何かだとするのなら……なんだろう。カップ麺があるとは思えないし、なにかスープや煮物のような……はたまた朝から熱燗か。案外沸かせたのはオーディエンスで、彼女はヒップホップを……いやいや。とにかく彼女の後を追おう。
「おはようございます……あっ! ちょっと何して——」
扉を開ける僕の背後から、驚いた様なシスターの可愛い声が聞こえた。ああ——と、その声色の意味を理解するのと、ミラがこちらに気付いて振り返るのと、彼女が一糸まとわぬ姿であることをしっかり確認するのはコンマ数秒違わず同時だった。身を小さくうずくまった少女の顔はみるみるうちに赤くなり、すぐに僕の眉間に乳白色の丸っこい石のようなものが飛んでくる。もちろんそんな未来は容易に想像出来たが、僕は今後の為にもこの光景を——素晴らしい絶景を、視力の回復したこの目に焼き付ける選択をしたのだった。
想像以上に強い力で叩きつけられた何かと、後ろから襟を思い切り引っ張る何かに僕は大体大股三歩分くらい後ろに思い切り尻餅をついた。一瞬合わなくなったピントが次に焦点を合わせたのは軽蔑の目でこちらを睨みつけ、ドアを必死に背中で押さえつけて立ちはだかる修道服を着た小柄な少女だった。
「男性は反対側です!」
さっき聞いた可愛い声で怒鳴られ、僕は額を押さえながらぐるりと別館の反対側へと回った。そこにも同じ様な扉があり、成る程こちらには青年の修道士が立っていた。おはようございます。と、爽やかな挨拶に会釈をして中に入ると、そこには整頓されたタオルの山と、竹製のカゴと、それからまた扉。というか流石になんなのかはさっき理解している。ミラに投げつけられたこれは石鹸だ。というか沸いてるもので彼女が裸になる必要があるものはそもそもそんなに多くない、それこそ沸き立ったオーディエンスの前でパフォーマンスをする為に衣装を着替えるくらいしか他にない。他に人がいないことを確認して、僕は裸になってその扉を潜る。やっぱり——と、少しだけ感嘆のため息を漏らして、思っていたより立派な浴場に足を踏み入れた。秋人ならぬ元気になったアギトも前より立派に……いや止そう。
風呂好きの少女とはまるで不朽の名作にでも出てきそうなとも思ったが、湯船に浸かってその感想は全部溶けて消えた。もう十年以上味わっていなかったその快感が、邪な感情すら飲み込んで洗い流す。あの遣る瀬無いシャワーと言う名の水浴びを経験した後だけに、この熱は病みつきになりそうだ。見ればコルク栓のされたいくつもの瓶に、ドロっとした液体が詰めてあるが……これはシャンプーとリンスか? 手にとって栓を抜いてみれば、爽やかな柑橘系の香りが立ち込める。成る程、脂を落としつつも体臭をケアするとなれば柑橘類。理にかなっているだろう。シャワーが無くて勝手は悪いものの、まさか洗髪でこんなにも癒される日が来るとは。
くまなく全身洗ってまた湯船に浸かり、人が増えてきた頃を見計らって名残惜しいがその場を後にした。宿直室の湿気ってカビ臭いタオルとは比べ物にならない柔らかくて甘い匂いのするタオルにまた感動しながら、まだ見慣れない体を着慣れない服にしまい込んだ。
またぐるっと回って女湯の方へ……は、さっきのシスターに睨まれて行けなかったので教会の中で待っていると、程なくしてミラの姿が現れた。彼女はこちらに気付くと目を合わせようとはせず膨れっ面でツカツカと寄って来る。
「じゃ、行きますよ」
トゲトゲした態度で彼女はそう言った。無視して置いて帰っても、見放してしまっても構わなかっただろうに、拗ねたような態度をとっても僕を探して迎えに着てくれたと考えると愛おしくてたまらない。色々思うところはあるが僕にとって彼女は唯一の頼りであるとともに好ましい存在であった。もう少し、もとい少しでも女性経験があればまた違った感じかたをしたのだろうか。
「あのー、怒ってます?」
まずゴメンと言えない自分の性格に初めて心がちくりとした。そういえば人を馬鹿にした発言ばかりをする様になってから、一体どれだけ過ごしたのだろう。と、こんな時になってひどく後悔した。
「いえ別に。どこに何しに行くと伝えなかった私に非がありますので。右も左も分からない貴方にはなんの落ち度もありません」
あからさま過ぎるほど拗ねた態度に思わず笑いそうになる。少し後ろを歩く都合、彼女の髪から漂う甘い香りに心拍を早めながら、少し速足な彼女に付いていく。
「えーと、そうは言うけどどう見ても怒ってるし……」
教会からも随分離れて人影が見えなくなった頃、彼女はふと立ち止まってこちらを振り返っ——
「……ミラ? ッッ⁉︎」
——振り返りざまに熟達された回し蹴りが脇腹に襲いかかった。
「えっ? あっ嘘⁉︎ ごめん‼︎」
全く防御なんて出来なかったことが予想外だったのか、さっきまで拗ねていたとは思えない程優しく、うずくまって唸り声を上げる僕の背中を撫でてくれる。
「や……やっぱり怒って……」
「だっ……そりゃだって、あんなにジッと見られると思わないじゃない! ドア閉めるとか目逸らすとか何にもしないで、あんなに隠しもせずに見てくるって思わないじゃない‼︎」
思っていたより僕に非のある理由だった。痛みもあったが、ふと先の光景が頭をよぎり、立ち上がれなくなってしまった。そんな僕を色々言いながらも介抱する彼女という図式は、それからしばらく続いた。
「落ち着いた? ごめん、モロに入ったとはいえそんなに強く蹴るつもりは無かったんだけど……」
「い、いや……今のは大体全部俺が悪いし……」
本当に……ほんっとうにしばらくしてから、僕達はまた歩き始めた。本人が隣にいるというのはとても良いもの……もとい良くないものだ。さっきまでより昨日に近い歩幅で歩いて少しすると、僕らは昨日は来なかった街外れの大きな農場にやってきた。
「さて、貴方のことは貴方が話せる時に話して貰うとしても、一個だけは先に聞いておきたいことがあるわ」
聞いておきたいこと? 僕はおうむ返しのように聞き直した。農場だけに食べ物の好き嫌い……では無いだろうが、はて、ではなんだろう。案外僕に気があって、今付き合っている女性はいるの? もしいないならその、私が……なんて——
「前の街ではどんな仕事をしていたの? 少しでも慣れた仕事の方が貴方も楽でしょう?」
全身から脂汗が噴き出した。転生してから間違いなく最高潮に心拍数が上がっている。息が苦しい。胸の奥と頭の中から爆発かと思うほど大きなドンドンという音が意識を覆っていく。
「……? アギト?」
「はひっ⁉︎ そそのっ……こここの間まで学生をしししていますて……‼︎ その……そそそその時に学びきれなかかっkたこここっkッッ⁉︎」
ダメだ——
目の前が真っ暗になる。
ダメだ——
完全にパニックだ。
やっぱりここでもダメなんだ——
吐き気が腹の底から一気に登ってくる。さっきまであんなに幸せな気分だったのに、もう息の仕方だってわからない。辛くて苦しくて、悔しくて情けなくて涙がボロボロこぼれだした。
僕じゃ折角やり直せてもやっぱり——
「——ごめんね! ごめんね‼︎ 大丈夫だから、大丈夫だから……!」
膝を折りかけた僕をミラはまた抱き締めてくれた。震えも苦しさも止まったが、涙はもっと止まらなくなった。
——僕はどれだけ彼女の善意を踏みにじり続けるのだろう——っ。
「落ち着いた? ごめんなさい、貴方の気持ちも考えずに」
違う。貴女は何も悪くない。謝らなければいけないのは僕だ……なのに……
「貴方、賢者見習いだったのね。凄いわ、その歳で」
彼女のする好意的な勘違いを正さなければいけないのに、僕は情けなく頷くことしか出来なかった。いや、しなかった。もう涙も出ない程自分に呆れてしまいそうだ。
「……よかったら私の秘書をやらない? これでも市長だもの、貴方にもやり甲斐のある仕事になると思うわ」
彼女は俯く僕の顔を覗き込んでそう言った。十字架に祈りを捧げる時の様に、膝をついてまで僕と同じ目線に立って……
「言っとくけど昨日今日みたいに暇じゃないわよ? バリバリ忙しく働いてれば、ちょっとは気も紛れるでしょう」
ぶちん——。と、何かが切れた音がした。ああ分かった、電源だ。彼女の優しささえ重いと、僕の心が意識を投げ出したのだ。暗く閉じていく視界の真ん中で、必死な剣幕でミラが何かを叫んでいる。ああ、そうだ言わなくちゃ。
ごめんなさい——
ボケた視界。柔らかくもすえた臭いの枕。カビ臭い冷たいエアコンの風。
どうやらここは、原口秋人の部屋で間違いなさそうだ——
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