第3話


 小さな水面に映っていたのは、いつもモニターにうっすら映り込む見飽きた現実ではなく、美男子とは言わなくても爽やかで生気に満ちた少年か、青年かと言った顔だった。はっきりと認識出来ないぼけた鏡だったが、それでもわかったことは幾つかある。まず、この世界に僕は——秋人という人間は存在しないこと。次にアギトという偽りの人間が、もしくは誰かに成り代わった人間が存在すること。そしてそれらがなんの問題にもならないことだ。

「アギト? そんなに不味かった?」

 悪戯っぽく困った様な笑みでこちらを覗き込んでくるミラに、精一杯の愛想笑いを返してまたカップを覗き込む。そう、何も問題はないのだ。だってそうだろう。キモオタ丸出しの、三十路の、メタボ手前の、全く何も成せなかった男がこの世界にいて何が出来よう。それこそ初手で通報から投獄、果ては社会的死までまっしぐらだ。外見も、年齢も、おそらく身体能力さえも大幅にグレードアップしてやり直す機会を与えられたのだ、と。そう考えるのが当然。そう、当然なんだ。それほどにまで僕の現実は逼迫していたのだから。

 与えられた権利に胡座をかくことは間違いでもないし、恥などであるはずもない。何かに追い立てられる様に、皿の上に残っていた臭い立ち込める魚達を真実の泉で流し込んで僕は覚悟を決めた。そうだ、やり直すんだ。ここには僕が道を踏み外す原因になったものは何も存在しない。FPSも、アニメも円盤も、劣等感も、しがらみも両親も消したい過去も何もないのだから。やり直せるはずなのだから……

「じゃ、行きましょうか」

 懐から硬貨を取り出し、空いた皿の横に無造作に積んで、どこへ? と、訊ねる僕を、その綺麗な翡翠色の目で引っ張る様に彼女は席を立った。

「もうすぐ御祈りの時間だもの。折角だから礼拝堂にも顔を出しておかないと」

 御祈り……そうか、異世界ということで実感も湧きにくいが、宗教——信仰があることには合点が行く。僕が参拝していた神社は実際に足を踏み入れられる場所になかったが……なに、作法は心得ているさ。張ればいいんだろう——弾幕をさ。

 在りし日のシューティングに打ち込んだ日々をも思い返しつつまた一歩、ただ安心感からか気持ち半歩弱だけ距離を詰めて彼女の後に付いて大きな礼拝堂の前までやってきた。ここは……さっき彼女が物憂げに眺めていた、僕が教会だと思っていた場所でもあった。

「こんにちはー」

 溌剌とした彼女の声はすぐに部屋全体に響き渡った。彼女の明るい性格からある程度察してはいたが、彼女を見るや否や皆が皆微笑ましげに挨拶を返している。彼女が人気者であることは明白だったし、それが妙に嬉しいような、誇らしいようないい気持ちにさせてくれる。

 彼女に手招かれるまま奥へ奥へとやってきて、ディティールに差異はあれどよく創作や写真で見かける大きな十字架の前へと辿り着いた。

「天に御坐おます我らが父よ。今日こんにちの平穏を街の守人もりととして、また安らかなること健やかなることを御身の一子としてその寵愛に感謝します——」

 小指で唇をなぞると彼女は膝をつき、胸の前で手を合わせてそう唱えた。見惚れていたわけじゃないが、立ち遅れた僕も少し慌てて隣に並んで同じポーズを取る。大いなる父さんに用はなかったが、下手をうって彼女の評判を下げるのも寝覚めが悪かった。数秒目を閉じて、もういいだろう。と、彼女の方に目をやると、またそれまでとは違った、これまでで一番綺麗だと感じる表情をしていた。別に寝顔フェチとかではなく。天真爛漫といった明るい表情とも、市長として——仕事の一環として、歳の割にずいぶん背伸びをした真剣な表情とも違う。無垢で静かな表情。寝顔のように無防備で無邪気な……いえ、ですので別に寝顔フェチとかではなくて。

 きっと彼女のような少女を人々は“黙っていれば美人”とか“残念美人”と呼んだのだろうか。そんなことを思いながら横目に彼女をうかがい続けおよそ一時間。時計なんて視界の中には無いが、頭の中でAoW地上戦訓練6–5がきっかり八回終わった為、虚無に耐え始めてから五十分近くは経った。これは間違いない。その間に何度“もう声をかけよう”と思ったかもわからないが、あと一息のところでもう少しだけ静かにしている彼女を眺めていたいと思ってしまった。

 何度も何度も送られた僕の熱視線についに気付いたか、彼女は組んでいた手を離し今度は人差し指の爪側で唇を撫でてゆっくり立ち上がった。

「それじゃあ次は貴方のことをお願いしなくちゃね」

 それは最早悪夢だった。指で唇に触れる仕草はとてもイイが、その後の虚無期間が長すぎる。痺れ始めていた足も完全に感覚を失って久しくなり、結局もう十回分の地上戦闘を終えやっとお父上の御前から撤退することが出来た。

「じゃぁ帰りましょうか。貴方も今日は早く休んだ方がいいわ」

 日はまだ傾き始めたばかりだというのに、ミラに引かれてまた僕は街の中を右往左往しながら抜けていった。

 しばらく、というかだいぶ歩いて二人は大きな公民館のような、ペンションのような建物へとやってきた。

「ここが会館で寮で、私達の家よ」

 そう言って彼女は玄関を押し開いた。僕の公民館という感想は案外的を射ており、受付のようなカウンターこそあれ、そこには十人程が集って掛けられる長机と机の高さに対して少し低いようにも見える椅子が七、八脚並んでいた。

「一階はまだ特に用になることもないでしょうけど一応覚えておいて。で、二階が宿直室になってるから。貴方もしばらくはここで寝泊まりしたらいいわ」

 お世辞にも綺麗とか立派とかいう単語からは程遠いボロ部屋だったが、それはそれで旅行のようでワクワクもした。ただ、ひとつ気になるのは、先程から他の人影を見ないことだ。彼女の言い方を鑑みるに、ここには他にも寝泊まりしている人がいるような口ぶりだが……

「お風呂は無いけどシャワーくらいはあるから、それじゃおやすみ。私は書類整理とか申請書書いたりとかでもうちょっと起きてるから、うるさくはしないけど気になったらゴメンね」

 そう言って彼女はひらひら手を振って隣の部屋へ消えっていった。扉は四つ、右端がシャワールームらしく、その隣の部屋の前で僕は立ち往生している。なぜならさらにその横の部屋へ彼女が入っていって、もう一つの部屋の扉は開きっぱなしで、中に大量の荷物が積み上げられていたからだ。シャワーなんてまともに浴びなくなって久しいが、折角のやり直しだから身なりにも気をつかってみよう。何かから逃げるように僕はシャワールームへ入る。そして今自分がどこにいるのかをもう何度目かもわからないくらい実感する。そこにはタオルこそあったものの、およそ入浴施設とは呼び難い、どう見ても雨水か汲んできた川の水が貯められた大きな瓶(かめ)と、柄杓と、そして謎の葉っぱが何枚かあるだけで、まだ暖かい時間に帰ってきた理由の一端を見た気がしていた。

 地獄のような水浴びを終え、僕は逃げ出した問題と直面する。そう、彼女の部屋が隣なのだ。それだけじゃあない、その隣の部屋にどう見ても人が寝泊まりしている痕跡が見当たらない。そうつまり……

「——っっ!」

 可能な限り早く、可能な限り静かに僕は部屋に飛び込んだ。というかこの部屋鍵すらない。そして、息を殺して例のやたら水だけある部屋の反対側の壁に耳を当てた。間違いない、彼女が紙にペンを走らせる音が聞こえる。というか聞こえすぎだ、薄いとかいう領域を超えている。決して悟られぬ様、感づかれぬ様スニークに徹し、側から見ると不審者百パーセントな動きで彼女の生活を、それこそ息遣いに至るまでを聞き逃さんとした。ふと冷静に、客観的にこれは完全に……とか考えなくもなかったが、個室を与えられ最早外聞を気にしなくてよくなってしまったからだろう。“バレなければ犯罪じゃない”という思考回路がフルに回転して、僕の蛮行に歯止めをかける要素を軒並みなぎ倒してゆく。

 やがてペンを置く音が聞こえ、ギシギシというかミシミシというか、とにかくこの部屋以上に使い込まれて傷んだ床を歩く音が……どこかへ行く。

「……まさか、いや間違いない……!」

華麗に部屋の反対側へ静音ローリングで移動すると……間違いない。彼女もまた、あの水責め拷問部屋へやって来ていた。


 結局その日僕が寝付いたのはどちらの部屋からも音がしなくなって一時間ほど経ってからだった。

 そんな浅い短い眠りのせいだろうか、僕は夢を見た。小学生の頃、まだ友達もいて大関と呼ばれていた頃の、それを幾らか美化させた夢。何でまたこんな夢を見なくちゃいけないのかも分からなかったが、そんな辛い夢も壁越しのモーニングコールに掻き消された。

「おきてるー? 今日は朝から良いとこ行くから、早く支度しなさーい」

 言われるがままに重たい瞼を必死でこじ開けて部屋を出ると、丁度同じように部屋から出てきたミラと廊下で鉢合わせた。

「じゃ、行くわよ」

 彼女の声も笑顔も、朝日を浴びるよりずっと手っ取り早い気付け薬になった。やはり……

「惜しいよなぁ……」

「……? なによ」

 これでスタイルが良ければなあ。

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