第2話



「どう? 鼻血とまった?」

 氷嚢を後頭部に当てて俯く僕の顔を、ひょっこりとそれは覗き込んできた。元はと言えば彼女の鉄拳が原因なのだが、僕に非がないわけでもないので黙って首を振るにとどめる。

 そう。と愛想のない相槌を残して少女はまた席に座り、頬杖をついてどこか遠く……ええと、教会? を、眺めているようだった。ぼんやりと、だがどこか物憂げな表情に妙に心がざわついてしまう。

「鼻血、止まったらご飯にしましょう。貴方のことはその時また。まだ若いんだもの、食べ盛りでしょう?」

 こちらの視線に気付いたのか、彼女はまたはじめに見せた明るい笑顔を向け返した。情けないほど条件反射で目を伏せた僕にミラは不思議なことを言う。その“まだ若い”と言うのは社交辞令だろうか。うん、そうだな。僕の体型はお世辞にも褒められるものではない、紛うことなく中年のそれと変わらない。いや、そもそも三十だから……っ。この腹に拵えたサバイバル用備蓄を見て大飯食らいであると目星を立てて、その上で僕を気遣った……

「……どうかした?」

 現実離れしたことに舞い上がっていたのだろうか。僕はこの時初めて自分の体を見た——いや、見るまでも無かった。そもそも鼻を押さえているこの手に、あまりにも見覚えがないのだ。お腹周りも哀れなほど痩せ細って……というか服も全然違う、この世界にマッチしたものに着替えさせられている!

「ちょっとー? あ、鼻血止まっ——ちょゎっ⁉︎」

 若返っている……? いや違う、僕は九歳からあだ名が大関だった。それにこの手、腕。細くなっているとだけ認識するにはあまりにもしっかりしている。間違いない。僕は確信して自分の服を捲り上げた。

——そこにあったのは、生涯憧れた夢のシックスパックだった。

「ちょ、ちょっと! いきなりなんなのよ! あ、怪我とか気になったんならせめてもうちょっと……人目に……」

 あわあわ言う声を辿ると、そこには耳まで真っ赤にして指の隙間からこちらを伺う初々しいミラの姿があった。テンプレに沿う反応だが、その満更でもないと言った視線は心地好い。生前(?)手に入れられなかった美しい肉体をこれでもかと披露したい欲望もなくはなかったが、周りの視線と、通報の恐怖と、それとちょっとの羞恥心に負けてしずしずシャツの裾を下ろした。

「と、とにかく! 血が止まったならご飯行くわよ!」

 正直タイプでは無かったが、美少女にこうも良い反応をされると否応にもときめいてしまう。十年前はツンデレキャラばかり嫁にしていたなぁ。などと遠い過去を思い返しながら、少し早足になった彼女の後を一歩遅れでついて行く。そう——良い意味でも、悪い意味でも——一歩下がっておかなければならなかった。

 良い意味でも悪い意味でも一歩下がった甲斐はあり、嬉しい思いもしつつ通報もされず、彼女とともにレストラン……もとい大衆食堂にやってきた。何か食べたいものはある? と聞かれ、当然キョドって、あ……大丈夫す……としか答えられず、それ以降も料理が届くまで凍り付く様な沈黙を甘んじて受け入れた。そんな地獄を乗り越えて出てきたのは……なんだろう、白身魚の……焼いたの、ソテー? ともかく魚と何種類かのキノコの炒め物がやってきた。水の入った金属製のカップに、そういえば“高級料理店では指を洗うための水が出てくる。貧乏人はそれに口をつけるからすぐにバレる”などというカキコミを昔見たような……なんて考えているうちに、喉を鳴らしながら水を流し込む漢らしい彼女の一面を見た。ううむ……なんだか、こう……

「で、デートみたい……だね……」

「……ん、何か言ったかしら?」

 逆じゃぁぁああい‼︎ 誰だ難聴系ハーレム主人公属性持ちヒロインなんて準備したのは!

「あ、いや……大丈夫す……」

 くっそう! 下手に顔が良いせいで、まっすぐこっちを見られると呼吸困難に陥りそうになる。美少女なんて画面越しに飽きるほど見つめ合ってきたってのに、なんだって今更……

 カチッと鳴ったか鳴らなかった曖昧な音を立てて、彼女はフォークを置いた。あまりにも挙動不審すぎて気分でも害してしまったのでは、と。通報されてしまうのではないかといつもの脂ぎったものとは違う冷や汗が背中をつたう。

「色々と聞きたかったけど、どうやらそうも言ってられないみたいね……」

 ドキドキではない。いつもよりずっとダイレクトに届く、ドンともバンとも似つかぬ鼓動が急激に速くなる。目を伏せていても感じる真剣な視線に、次第に息苦しさも感じ始め……あぁ! まずい、はぁはぁいったりすれば今度こそ間違いなく警察——

「——よほど酷い目にあったのね。何度でも言うわ、貴方はもう大丈夫。私も、この街も、地母神様も貴方の安寧を願い、貴方の未来を祝福するわ」

……予想もしなかった言葉だった。数年前、気紛れに昔遊んだ公園まで出かけた時は、ベンチに座って三十秒で防犯ブザーを鳴らされたこの僕を、通報しないどころか優しく受け入れてくれると言うのか。尤も……なにか勘違いもしてそうだが……

「市長としてだけじゃない、もうここまできたら何かの縁よね。私を頼ってくれれば力になるわ。うん、約束する」

 俯いたままの僕にも見えるように彼女は右手を差し出した。白くて小さくて、荒れてはいるけど綺麗な手。反射的にその手をギュッと握ってから、自分がものすごい手汗をかいていることに気付いた。しまった——って、手遅れな後悔に、怖くなって慌てて視線を上げる。けれど……僕の恐怖はまたどこかへ消え去ってしまった。嫌な顔一つせず、それどころかまたあの笑顔を向けて。離しかけた僕の手を、ぎゅっと握り返してくれた。萌えとかブヒるとか尊いとかしんどいとか、息をするように使ってきた言葉で表しきれない感情が奥底から湧いてくる。DTがボディタッチ一発で落ちるなんて嘘だ。だって今僕は紛れもなく目で、言葉で、優しさで、そして温もりでそれぞれ五回は恋に落ちて——

「ほら、冷めるわよ」

 笑いながらそう言って、ミラは離した手を軽く振ってから思いっきり服で拭って食事を再開した。

「——ときめきと純情とほんの少しの水分塩分を返せこの女狐ぇぇええええっ‼︎」

「な——っ⁉︎ 誰が女狐よ! いい度胸してんじゃないこらぁ‼︎」

 間違いないこいつはとっくに廃れてオワコンに成り下がったツンデレ()女だ、それも時代遅れの暴力系ガサツヒロインだ! ちょっと顔が良いからって騙されると思うなよ。僕はどんなクソアニメだろうが全話視聴する誇り高いオタクだ。お前の様な厄介なヒロインがメインヒロインに据えられたアニメの尽くがここ数年人気を落としていることも、今のトレンドがしっかりしているようで少し抜けている、守ってあげたくもなる一面を持つが全体的に包容力の高いお淑やかおっちょこちょいお姉様が人気の80%(自社調べ)を占めるまさにバブみの戦国時代だ! 今更化石ヒロインなんかに回ってくるお鉢はどこにも……

「……なんだか知らないけど。出たみたいね、元気」

「っっ⁉︎ あ、いや……」

 不意に微笑まれるとどうしても弱い。うぐ……これで性格とスタイルさえ良ければ……

「話せることから話してちょうだい。まずは貴方の名前から」

 今更になってキャラ紹介……もとい自己紹介も済んでいなかったことに頭が回った。本名……だと浮くかな? ミラ……と、並んでても変じゃない、カタカナの名前……

「えっと……ぼ……お、俺はアギト。よろしく…………み、ミラ……さん」

「アギト……不思議な名前ね。よろしく。それと市長だからってさんなんて付けなくていいわ。歳もそう変わらないでしょうし」

 どうやってもボイチャの時のように話せない。ヒキニートにしては百二十点の出来と言っていい自己紹介だったろう。いつもさんとか氏を付けて呼ばれるハンネが呼び捨てされている妙な高揚感に心が躍る。

「とりあえず食べてからにしましょっか。冷めると不味いのよねー、コレ」

 残っていた一口を含んでから彼女の表情に雲がかかり、僕もようやく一口目を噛んでその意味を理解した。

「……ね?」

 しっとりとは違う、糸を引くような柔らかさと川魚の青臭さと、カビ一歩手前みたいな匂いを発する菌糸類が口の中を跋扈する。味付けは……おそらく素材を生かした塩味。だからいつも言ってるだろう、焼き鳥はタレ、ステーキはグレービーソース、ポテチは決まってコンソメだと。もそつきはじめた魚を流しこもうと水のカップに目をやった時、今更また新しい事実に気付いた

 僕は若返ったのでも痩せたのでもなく、まるで別人になっていたのだった。

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