異世界転々

赤井天狐

第1話


 遠くで爆発音がする。もう手遅れだ——。そう言って皆、不満のこもった舌打ち混じりに撤退を始めた。助けに行こうと言う奴もいたが、誰も相手にする筈がない。勿論俺も無視して後退を続けた。

 それでもまだ諦めやしない。他の全員も同じ、誇りをかけてこの戦場に来ているのだから。隊長でもある俺は、助けようと言い続ける彼にこうボイスチャットで投げつけた。

「余計な事すんなヘタクソ! あのヘタクソのせいで今負けそうなのわかる? 半端されるとこっちが迷惑なんだよ。これ戦争だから、わかってる?」

 俺の叱責に続くもの、初心者さんだからとなだめるもの、そして黙りこくるもの。そんな事はもうどうでもよくなるほどに銃声が近付いてくる。

「クソッ! マジクソッ! どっかの誰かのせいでP3落とされたのマジクソ過ぎ」

 戦力差は歴然だった。補給もままならなかった歩兵部隊と、装甲車を手にした敵部隊。もうそこからは何事もなく、気付けば周りも皆オチていた。

 Assault of wilderness略してAoWと呼ばれる所謂FPS沼にはまって早十五年。ハンドルネームアギトこと原口秋人はらぐちあきとは今日でめでたくもない三十歳の誕生日を迎えた。実り多き人になりますようにと両親から頂いた名の通り、腹回りにたんと脂肪を蓄え、七月にもかかわらず名前の通り涼やかな冷房の効いた部屋で、鮮やかな落ち葉を思い浮かべるようなティッシュの山をこさえて今、冷静になってしまったことを後悔している。

 こんな筈ではなかった。ついこの間までは友達と笑って家に帰っていた筈なのに、今は誰とも話さず部屋の中。ついこの間クラスで孤立しただけなのに、もう世界から孤立してしまった。ついこの間父親が倒れたばかりなのに、まだ僕は——

「——目を開けてください」

 ああ、眠ってしまったのか。もう連戦に耐えられる体ではなくなってしまったのだと、ふともの悲しくなる。真っ暗な海の中に沈んでいく夢か。冷静に現実を見ながら寝付いたものだから、こんな陰鬱な風景の夢を……

「——さあ、手を伸ばして」

 聞いたことのない声。しかし、今期覇権と名高いアニメのヒロインに似た澄み渡るような柔らかな声質。ああ、アラームアプリ買ってたっけ。

「——早く! 間に合わなくなってしまう」

 そう急かさないでハニー。僕はまだ眠たいん——

「————起きなさーい——っ‼︎」

 何も感じない海の底で、僕は脳天から走る衝撃と痺れるような冷たさに飛び起きた。

「うわーッ⁉︎ なnッなんだ⁉︎ なんなんだ——っ⁉︎」

「なんだじゃないわよ! 人が親切に起こしてやったってのに!」

 耳に突き刺さるようなキンキン声。なんだなんだ、僕はそんなアラーム買って……

「そんなとこで寝てると馬車に轢かれるわよ。全く、何考えてんのよアンタ」

 そんなとこ? 馬車? 何言ってるんだ、僕は僕の部屋から一歩も——

「……ちょっと? どうしたのよ」

 違う。僕の部屋の匂いじゃない。遠い昔に嗅いだむせかえるような青の匂い。そうじゃない、今期アニメのアラームなんてまだ出てないし買った覚えもない! なんだ? どうなってる? とりあえずメガネ……

「ひゃっ——」

 これは夢じゃない。確かに五感が働いているんだ。濡れた肌をさらう暖かな風の感触も、耳に届く賑わう人々の喧騒も、裸眼でもくっきり映る真っ白な世界……も?

「〜〜〜ッ! このっ‼︎」

 熱いほどに走る頰の痛みも……クソ。流行らないんだよ、今時暴力系ヒロインなんて……


 僕は三十歳を記念して引きこもりを強制引退させられたのだろうか。明らかに現代ではない文明の後退度合いに、明らかに僕の部屋……と言うか日本ではない風景。かつては魔法使いになると言われる三十歳童貞のお誕生日プレゼントは、どうやら現代風にアレンジされているようだ。

「で、結局アンタは何者なのよ」

 あからさまに嫌悪感を向けられているが、彼女は僕から離れるのではなく同じ席に座って、あまりにも大雑把な質問をぶつけてくる。ここまで絵に描いたようなツンデレヒロインも今時珍しい。それだけで既に感心するし、顔立ちも整っていて美少女と呼べるのだろうが……いかんせん……

「……なによ、せめて名乗……ッ⁉︎ ちょっ! どこ見てんのよ!」

 今度はさっきと逆の頰に熱が走る。暴力、貧乳、顔は良い。まったくもって百二十点。

「だが残念、拙者お淑やかお姉様属性萌えでして……」

「はぁ? アンタなにブツブツ言ってんの」

 おっといけないいけない、声が出ていたでござるなぁデュフフw

「まぁいいわ。そうね、まずはこちらから名乗るのが礼儀でしょう。私はミラ。ミラ=ハークス。貴方は見たところ冒険者と言うわけでもなさそうだけど、旅の芸人さん?」

 冒険者、ね。やはり間違いない。童貞護って三十年、どうやら魔法使いになるのではなく、流行りの異世界転生をすると言うのが現代の習わしのようだ。おや、と言うことは僕は死んだのでは…………

「……い……」

「……い?」

「嫌だぁあああああ——っ‼︎」

——嫌だぁあああああ——っ⁉︎

「ちょ、ちょっとどうしたのよいきなり!」

「まだ! まだ死にたくない! いつ死んでも構わない、いやむしろ殺してくれ、と言うか今これ生きてるって言っていいんです? なんて二度と思わないから! お願いだからまだ生きさせてぇえええ!」

 直面して初めて理解した死への恐怖と生への執着。泣き叫ぶのはこの先困り眉泣き黒子巨乳ムチムチボディ未亡人お姉さんにおぎゃり倒すときだけだろうと思っていたが、まさか恐怖に震えこんな小娘の前でみっともなく喚き散らす日が来ようとは。頭で何を考えようと、圧倒的な恐怖が体を支配する感覚。暖かな陽気も関係なく、僕の体はガタガタと震え続けた。

 流石に彼女もドン引きだろう。さっきまであんなに、煩いくらいだったのがもう静かになって。ふと顔を上げても誰もいない、流石に汚らしいおっさんが取り乱したのだ。そのうちに警察とか憲兵とかが——

「大丈夫です。ここには戦争も無い、魔獣もいない。よっぽど怖い目にあったのですね」

 ふわっと漂う甘い香りと優しい温もりに、あっけないくらい震えはおさまり恐怖も薄らいでいった。

「ここアーヴィンの街と自然、人々は貴方を歓迎します。市長として、私が貴方の平穏を約束します」

 心地好い、ずっとこうしていたいと思える場所に今いることが、きっと生への未練を断ち切ったのだろう。我ながらなんて簡単な精神をしているんだろうか。

「はあぁ……しゅき……」

 僕を優しく抱きしめるこの白い細腕にフォーリンラブ! 柔らかなその体とその声に、僕は! 現実をやめるぞ! ジョ○ョーー‼︎

「っ——はぁっ⁉︎ ちょっとアンタ何言って⁉︎ 安心して勘違いしてるだけよ! もう、なんで私が取り乱して……」

——三十歳にして分かったことは、貧乳でも柔らかいものは柔らかいのだ。と言うことだった。

「あっ、はい。勘違いでした……」

 どうやら本当に異世界に転生したらしい。これは夢でも妄想でも無い。だってこんなにも顔面にめり込んだ拳が痛いのだから。

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