お前のものではないよ


 ――ああ、生きている。


 まだ本調子じゃないくせに。ふらふらと頼りない足取りのくせに。僕のたった一言で、あんたはきっともう死ぬのに。

 こちらを見て、ひどく嬉しげに男は笑う。


 会いたくなかった、会いたかった。会ってしまえば、もろいものだ。


 どんな顔をすればいいのかわからなかったのに、眦に浮かぶものがきっと気持ちの正体だ。


 もう、怒ってないのかな。だったら、今日くらい優しくしてあげてもいいかなあ。


「あ、ええと。噂をすれば、だ」


 滲もうとする涙を瞬きで誤魔化し、喉を締め付けるものを無理に開放する。ちらりとエミリーナを見上げれば、すでに彼女も男に気づいていて、輝かんばかりの笑顔をそのおもてに浮かべている。太陽の愛を一身に浴びているようなそのきらめきはどうか。眩しくてまぶしくて、とても見ていられない。


「ディアギレフ!」


 エミリーナの声に、す、と何故だか急に胃が冷えて、何かの予感が脳裏をよぎった。それはすごく、いやな気分だった。その漠然とした感覚が確かな形をとるより先に、引きずられるように視線がディアギレフへと戻り、そして、アリオンはすとんと納得した。


 それと同じくして、アリオンは違和感の正体に思い至った。


 エミリーナ。


 ディアギレフの船室で、見かけた手紙の差出人が、そんな名前だった。

 ディアギレフが港町で待たせている恋人。


(――嗚呼、そうか)


(あれは、僕を見て笑ったんじゃなくて、)


(僕に会えてうれしかったのではなくて、)


 羞恥と怒りで、顔から火が出そうだ。

 乙女のように駆け寄るエミリーナを危なげなくディアギレフは抱きとめて、その流れるような動作にアリオンはまたしても理解させられずにはいられない。これで分からなければ本当にただの阿呆だ。


 当然のごとく自分のものだと思っていたものを、違うのだと横面を張られて知らしめられたような。


 こんな身勝手な感情が、自分の中にあることを、知りたくなどなかった。


 けれど、覚えている、本当は知っている。これは昔むかし、とっくに学ばされた感情だ。じわりと脳の片隅から漏れ出してくる情景を、今はまだ、抑え込む。


 イサクの上着を握った手に、ひどく力がこもっている。心配げにイサクとコックスがこちらを伺ってくるのを感じるが、彼らは何も言わなかった。賢明だ。表だって案じられでもしたら、我を忘れて怒鳴り散らしたに違いない。

 そんな失態を、絶対にディアギレフの前でおかすものか。


 意識して肩の力を抜き、イサクから手を離し、頬のこわばりをほぐした。動揺を忘れようと悟られない程度に深呼吸し、にこりとイサクとコックスに笑みを向けると、彼らも安心したように少し笑う。二人はふたりで、緊張していたのだろう。


「それじゃ、まあ、僕たちも行こうか?」


 改めて二人の手を引っ張って、アリオンはそう提案する。にやりと口唇を吊り上げて、少女は寄り添う男女を目線で示す。


「ほら、僕がいちゃあおちおち寝てもいられないだろう? いつなんどき殺されるかわからないし? ――なあ、ディアギレフ!」


 最後だけしっかり声を張って呼びかけると、二人は合わせていた額を離し、アリオンを向く。今にもキスでも始めそうな距離だった。

 それにまた呼吸を忘れそうになるが、そうして傷つきそうになる自分に少女は耐えられなかった。癇癪を起したくなるような衝動をやり過ごし、アリオンは繋いだ手を掲げて見せる。


 ディアギレフは少しだけ、目を眇めた。カラーグラスをかけていないので、眩しかったのかもしれない。


「ちょっとイサクとコックスと出かけてくる! あんたはしっかりエミリーに看病してもらえよ!」

「そういえばあなたこの前、アルミリアに襲われたんだったわね。大丈夫なの?」

「まあね、あの子さえ馬鹿しなけりゃ、全然平気」


「あんた失礼だな!」


 からからと声を立てて笑うと、一様に驚いた視線を浴びる。まあ、アリオンには予想の範疇だ。こんな風に邪気なく、ディアギレフに相対したことなんて一度もない。

 両脇から額に手を添えられた。失礼な。


 この眼差しは彼を刺すためのもの。この口は彼に毒を盛るためだけのもの。でもこの執念を、わざわざ彼を愛する女性に見せる必要などない。


 あなたになど興味はないよ、ディアギレフ。ただの人魚と、その船長。それだけ。どんな関係があろうと、彼がだれかと愛し合うのは自由だ。


 平坦なアリオンの眼差しに、反してディアギレフは気分を害したようだった。


「お前さんは? 看病してくれないの」

「はあ?」


 こいつ、こちらが親切にしてやったらつけあがりやがった。引き攣る口元を無理やり笑みの形に維持するのが大変だ。


「僕は看病が下手だから。悪化しちゃったら悪いからね。エミリーだけで十分だろう? なにせとっときの美女だ。積もる話もあるだろうし」


「あら、ありがとうアリオン。気を使ってもらってごめんなさい。でも私、あなたのお話も聞きたいわ」

「それはもちろん、喜んで。でも、僕、港に降りるのは初めてなんだ。正直ちょっといろいろ見て回りたいし」

「そうなの? それなら引き止めちゃ悪いわね。いってらっしゃい、……気をつけて」


「ありがとう。じゃあ、そういうことだから」


 話はすんだとディアギレフを見やれば、不機嫌そうな顔のまま、ちょっと待ってな、と唸るように言う。こちらが客人の手前、愛想よく振る舞ってやっているのに一体どういう了見だろう。しかも是非を聞く前に男は踵を返してしまった。


 その瞬間、アリオンはぎくりとして、目を見開く。


 アリオンは、ディアギレフが背を向けるのが、――――嫌いだ。


 拒絶。


 頭の中が真っ白になって、息を止める。


 男はアリオンを、拒んだのだ、あのとき。

 さよならの前に確固とした絆を望んだ、自分を。


 そして、それは、――それは、


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