美しい昔馴染み


 目が覚めてからのディアギレフの回復は早かった。半日で寝台から起き上がって平気で歩き回ろうとするため、周りの者の方が焦って彼を寝かせようとする。


「へーきだって、もう。アリオン様様? まあこれの怪我もあの子のせいだけどねえ」


 そんな笑えない冗談を飛ばしながら、自室に帰ろうとしたりもするので、アリオンは先回りして右へ左へと隔離される。折角目が覚めたのに、決定的な言葉を目の前で吐かれてはまずいということなのだろう。アリオンはディアギレフの影すらも拝めなかった。もちろん、顔を合わせたところでアリオンがやることなどひとつだから、彼らの行動は確実にディアギレフの延命を助けている。


 ディアギレフが元気な姿を見せているせいか、アリオンに対する周囲の風当たりも、やわらかくなった。甲板に出ていても以前ほど敵意を感じない。


 迷路のような岩礁を抜け、早朝ロディゴに着いた。ディアギレフも目を覚ました、オー・スクエアは喜びに沸いた。ランドルの依頼も無事完遂し、報奨もたっぷりといただいている。海の民の法に乗っ取り、それは確実に船員に分配された。温かくなった懐を抱えて、皆船を降りる。


 夜になれば、祝杯をあげる予定だ。女が大勢呼ばれ、飲めや歌えやの大騒ぎ。気に入った女がいれば、その後はお楽しみだ、とわざわざ聞くまでもないくらい大声で浮かれているのが、アリオンの耳にも届く。


 オー・スクエアの来航はロディゴにとっても喜ばしい事態だった。ここはディアギレフの所縁深い土地だという。

 ロディゴは表向きアルミリアに属する島だが、その国ができるはるか以前から海の民とのかかわりが強くある、『海賊の島』なのだ。倭国へ至る、最後の中継地としても有名らしい。


 海賊たちは気前のいい客だ。大量の金をばら撒いていく。

 久々の陸地だから、そうなるのも無理はない。それはアリオンの目付けであるコックスも同様らしく、島を散策しよう、と誘ってくる。


「あいつは?」


 むっつりとアリオンは訊ねた。「奴が行かないなら、僕も残る」

「病み上がりが出歩けるわきゃないだろ。第一、お頭は船から離れられないしな。お前が許可を出すならともかく」


「僕? 何で僕が関係あるんだ?」

「船は船長そのものだ。人魚が許さないと、船からは動けない。まあ、今はどっちにしろお前が許可を出したところでベッドに括りつけるけどな」

「じゃあ僕も行かない」「却下。お前がいるとおちおちお頭も寝てられねえだろ」


 まるで厄病神のような扱いだが、実際そのようなものなのでアリオンも反論できない。隙あらば、と思っているのは確かなのだから。


「まあまあ、そんな辛気臭い顔しないで。行ってみると実際楽しいもんだと思うよ」


 ふらりと現れたイサクも押し黙るアリオンの肩を抱くように、背後から圧し掛かってくる。


「重たいぞ、イサク」

「つれないことをいいなさんな、ね? ほら」「いやだって言ってるだろ!」


 手足をばたつかせて抵抗していると、不意に聞きなれぬころころとした笑い声が聞こえた。船上ではまず聞かない、涼やかな女の声だ。アリオンは暴れるのを止め、首を傾げて振り返った。


「まあ、ずいぶんと元気なお嬢さんね」


 妙齢の、美しい女だった。長くやわらかな金の羽毛で守られた緑色の宝石が、にこりとアリオンに微笑みかける。きゅうと引き上げられたルージュの唇の、なんとみずみずしく蠱惑的なことか! たおやかな手が、レース生地でできた真っ白な日傘の細い柄に添えられている。纏う真紅のドレスは最新の流行のもの。大きく広がったパニエに、コルセットで強調された腰つき、大胆に開いた胸元から二つのふくらみがはちきれんばかりの存在を主張している。ほっそりとしたしみひとつない首元は完璧な造形美を保ち、壮絶な色香を放って見るものすべてをそそるようだ。


 甲板の誰もが息を呑み、うっとりと彼女を見つめている。しかし彼女はその賞賛の眼差しを当然のように浴びていた。


「ミセス・ガーバンティ」


 イサクが漏らした声に、彼女は咎めるような視線を向けた。そのたった何気ない仕草ひとつでさえ、見る者の心臓を止めるようだ。


「無粋な呼び方をしないで頂戴、何度言ったら分かってくれるの? イサク。昔と同じように呼んでほしいわ」


 優雅な仕草で傘を閉じ、アリオンの前までやってくると、彼女は少女と目線を合わせるようにかがみこんだ。


「初めまして。エミリーナよ。エミリーと呼んで」


「え、ええと……」


 アリオンは声を掛けられてようやく彼女の女神のごとき美しさから立ち直る。戸惑いながらも少女はイサクに身を寄せ、上着を引っ張った。彼女はいったい誰なのだ? なぜわざわざアリオンに挨拶などするのだろう。

 

 けれど一方でどこかでその名前を聞いたような覚えもあって、違和感が胸を苛む。

 

 果たしてどのように対応するのが正解なのか、アリオンにはわからなかった。


「……ディーの昔馴染みだよ。俺の幼馴染でもある。んで、ここの領主の奥さまだ」

「……領主婦人?」

「かしこまらないでね。久しぶりに彼の船が寄港したから、会いに来たの。いつものことなのよ、許してね」


「なんで、わざわざ、僕に、言うの」


「あなたが彼の人魚でしょう? いつも話に聞いていたわ、アリオン。会いたかったわ」


 熱烈に、ぎゅうと白魚の手に両手を握られる。どうしてこんなに緊張しているのか、とアリオンは思う。彼女がとても美しい女性だから?


 美しくてうつくしくて、とても、怖い。


 気づかれないように浅く長く呼吸をして、アリオンはぎこちなくうなずいた。エミリーナの眼差しを正面から受け止めきれない。視線がどうやったって横に逸れていってしまうのはなぜだろう。


「僕は、あいつの人魚なんかじゃ、ない、し。だから、あいつがいいなら、好きにすれば、いいと思う、エミリーナ、……エミリー」


 そうして嫌でも男の気配に敏感になっている少女は、賑わいに誘われて甲板に誘われて来たのがディアギレフだと分かってしまうのだ。

 深い感慨が、胸の底まで落ちてくる。どれほどかぶりに姿を見た、それだけで歓喜に震える心臓がある。


 ――ああ、生きている。



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