二律背反
局所的に襲った高波は幸いにも、オー・スクエアに大きな被害は出さなかった。戦闘から距離を取っていた商船ランドルも同じくだ。
しかし、軍船≪海の女王号≫はそうはいかなかったし、オー・スクエアの方と言えば砲台は全て水浸し、多くの船員が海へと投げ出され、血の臭いに誘き寄せられた海獣に喰い荒らされた。オー・スクエアの乗組員は、いち早く察したイサクの号令により手近なものに掴まり事なきを得たが、彼の命令を聞く義理のない軍人たちには意味をなさない忠告だったらしく、波が去ったあとのオー・スクエアからは見事に白い軍服が消えていた。
人員に壊滅的な打撃を与えられた海軍はそのまま撤退するしかなく、海賊たちの本来の目的であった、商船ランドルを守るという使命は無事遂行されたわけだ。
しかし、その代償はあまりに重い。
オルテガのサーベルは過たずディアギレフの急所を刺していた。三日たった現在もディアギレフは昏睡状態から抜け出せず、予断を許さない状態らしい。
これに止めを刺されてはまずいと、医務室で治療を受けているディアギレフと入れ替わりに、彼の船室に見張りのコックスとともに閉じ込められているアリオンである。これはディアギレフを守るのとともに、アリオンを守る措置でもあった。アリオンの足止めのせいでディアギレフが怪我を負ったことは、その場にいた誰もが知っている。血気盛んな若い船員たちは、要因となった人魚に怒りを向けずにはいられない。そしてそれは、古参のコックスでさえ、そうなのだ。
「お頭と契約してやってくれ」
頭を下げて懇願してくるのだから、堪らない。アリオンは椅子に蹲ったまま顔を上げない。固定されていなかった調度品は床に散らばったままだったが、それを片付けようという気にもならなかった。
「このままじゃいつ死んでもおかしくない。救ってやってくれ、アリオン。俺たちからお頭を奪わないでくれ」
「……僕がわかったと頷いたとして、本当に言葉通りのことをすると思うか? 奴に吐くのはとどめかもしれない」
「アリオンっ、」
「僕はそういう、生き物なんだよ、コックス。期待なんてしないでくれ」
「でもお前はあのとき、止めろと叫んだじゃないか」
「――――うん、」
顔を伏せたまま、うったりとアリオンは唇を弓月に吊る。「僕が、殺したいんだからね。他に奪われちゃあ、堪らない」
「そうじゃ、なかっただろう。あれは」
そういうことにしておいてくれよ、とアリオンは胸中で呟く。予感が、現実のものになろうとしている。船に乗る前には知らなかった様々なことが、アリオンをどんどんなまくらにしていく。
失態だ、我を忘れてしまった。大失態。
内陸の屋敷に住んでいたころ、アリオンは海賊を、海を荒らすならずものだと思っていた。そう教わってきたし、それに何の疑問も持たなかった。そしておそらく、その通りの連中だっているのだろう。船を襲い、物資を略奪し、人を殺す。けれどオー・スクエアが相手取ったのは海軍だけで、いまだにランドルは無傷のまま目的地に向かっている。
Ocean‐order、オー・スクエア、海洋の秩序。
自由航海、自由取引を妨げる、海軍の方が商船の敵。海賊の敵。海の民の敵。海賊たちは海軍から、商船を守る。海を知り尽くしている男たちが、安全な航海の導き手となる。
『大義が自分の方ばかりにあるとでも? 自惚れなさんな、アリオン』
ディアギレフは、そう言った。そう言ったのだ。
国家の定める法だけが、正しいのか。彼らはこれまで、その法が定まる以前から、彼らの法で生きてきたのだ。
それを知ってしまった。
父の大義、ディアギレフの大義。
それぞれの志を抱えて戦ったのだ。それでは仕方がないのではないかと、こころのどこかが囁く。どちらが死んでもおかしくはなかった。
――……風化しない、想いなどないのだ。
なんて、ひどい。薄情。
「……難儀だね。あの男を殺してしまいたいのに、この身を結ぶ絆がそれは恐怖だと喚くんだ……」
そしてそれは、アリオンの理性すら超えた作用を引き起こすのだ。今回のように。遠い過去に置き去りにしてきた幼い子どもが、彼を失いたくないと泣き叫んでいる。そして、人魚が何たるかを忘れてしまった今のアリオンとは違って、彼女ははっきりと人魚としての自分を自覚して、その力をどう行使すればいいかを知っている。
ディアギレフを助けようと無意識にブレーキがかかっている。
「君たち、僕を信用できないだろう。だからあいつのところには連れて行かない。第一残念なことに、僕は正式な契約方法を忘れてしまったし……。できたらさっさとやっているよ。手っ取り早く、あいつを殺せる」
「お前はそれで後悔しないのか」「今の僕は、ね」
ディアギレフを慕っていたという幼いアリオンの心情は、きっと後悔という言葉では追いつかない。けれどどうせ、ディアギレフを殺した瞬間にアリオンも死ぬのだ。自分が選んだ男だから、その契約を自ら破棄することはできない。
「苦しいよ……」
やるせなくて、仕方がない。身体がふたつあればいいのにとこれほど思うことはない。彼を憎んでいる。今すぐ息の根を止めたいほど。けれどその一瞬後には、堪らなく彼を失うことが怖いのだ。彼が倒れ伏したときに感じた絶望、身体を引き裂くほどの痛み。それは心に感じた疑似的なものにすぎなかったけれど、それがまさしく身体に作用したのだ。繋がりが、ある。覚えてもいない遠い昔に繋いだ絆が、いまもアリオンを縛っている。だから。
「大丈夫だよ。僕が何もしなくったって、きっとあいつは死なないよ。どこまでこの中途半端な契約が及ぶのかは分からないけれど、多分、死ぬまではいかないんじゃないかなあ」
「本当に、そう思うか」
「そう簡単に、死ぬようなタマじゃないでしょ。だから僕も、手こずってる」
そしてその予想は現実のものとなり、その翌日にはディアギレフは目を覚ましたのだった。アリオンは舌打ちをしたけれど、どこかで安堵していたのも、事実だ。
ランドルを送り届けることになっていたロディゴの港町に入る、前日のことだった。
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