過ち 


「ッ止めなさいアリオン!」


「ま、て。待……て、ディアギレフ!」


 掠れた声を、アリオンは振り絞った。「『待て!』」


 不自然に男は動きを止め、苛立ちを隠さない眼差しでアリオンを睨みつけた。荒い足取りで戻ってきて、アリオンをエンジェルの腕のなかから奪い取る。

 背に痛みが走るほど強く壁に押し付けられ、アリオンは咳き込んだ。睨み上げ、怒鳴りつけようと口を開く。


「っなに、す――――――」


 最後まで、言わせてはもらえなかった。

 ディアギレフが自分のくちびるで、アリオンのそれを、塞いだからだ。


 何が自分の身に起こっているのか、理解するまでたっぷり五つ数える時間を、アリオンは要した。視界のはしで、エンジェルが絶句していた。

 唾液を纏ってぬめる舌がアリオンのくちびるを撫で、強引に歯列を割って口腔に入ってくる。


「――んン、ぁ」


 我が物顔で狭い咥内を犯され、子どもはただ信じられない気持ちで身体を強張らせていた。彼が自分にこんなことをするのを、一度も想像したことがなかったから。どうしてこんなことをするのかわからなかったから。


 キス、これは、――キスというのだろうか。口と口を合わせるそれは恋人や、夫婦だけがするものではないのだろうか。


 物語で読んだことのある優しいものでもなく、食いつくようなそれは容赦ない。押し付けられた唇から感じられるのは憤りで、愛情から来るものとは到底思えなかった。けれどじっとりと執拗に口腔をまさぐる仕草はどこか熱っぽく、引きずられるようにアリオンの体温も上がっていく。長い舌で口の中をみっしりと埋められると、苦しいのに自然と喉奥から甘えたような声が漏れる。


「ふ、ぅう、ンっ」


 ぼうっと神経を抜かれるような初めての感覚に、どうすればいいのかもわからない。身体中の力が抜けて、アリオンは一切の抵抗を忘れて男にされるがままだった。

 そのせいでディアギレフは短い時間ではあったものの、十分その幼い少女を堪能する時間を与えられることになった。呆然と紅い目を見張っているアリオンは事態にまったく対応できていない。


 アリオンのくちびるを舐め、その口に息を吹き込むように、ディアギレフは至近から恫喝した。


「――俺を愛する気がないのなら、ぐだぐだ俺のすることに文句をつけるな。ひっこんでろ」


 押さえつけられていた肩から突き放すように手が外れ、アリオンは許容外のことにいまさら怒ることも泣くこともできず、途方に暮れて元凶である男を見上げた。


「――こうして、俺にお前はキスできるか?」

「、――え、」


 強張った母音が喉から落ちて、アリオンはそれ以上何も言えない。そんな子どもを前にして、男といえば至って冷静にアリオンを見下ろすのだった。「……いま俺がお前にしたみたいに、お前から俺にキスができるか?」


 ディアギレフは薄い笑みをその整ったくちびるに浮かべていた。アリオンは鈍くしか動かない脳味噌を何とか回転させ、台詞の意味を模索した。けれど返答する前に、彼はアリオンからその機会を取り上げてしまう。


「オー・スクエアの連中を死なせないために、お前、俺と契約するか? しないだろう。俺のためには歌えないだろう。この船に対する責任をとる気がないのなら、黙っていろ、邪魔をするな。気障り極まりない」


 冷え冷えとディアギレフは吐き捨てた。


「俺たちには俺たちの主義があり、それに則って動いている。部外者が口を挟むな。俺たちが負ければお前の身も危ないんだ。せいぜい船室で見つからないように隠れているくらいの協力はしてくれ」


「――ッだれっ、も。僕、は! 守ってくれなんてひと言も言っていない……!」


 この期に及んでまだ虚勢を張るアリオンに、ディアギレフはふと全ての表情をそぎ落として、やがて白けたように鼻を鳴らした。


「……あ、そ。……だが俺はお前を守らなきゃならない。俺が死にたくないからだ。

 ――守ってあげるよ、アリオン。お前が俺を殺すまで」


 矛盾極まりないことを言って、目を細めた男はアリオンの頭を撫でた。触れていったのは一瞬だった。惜しむ様子もなくアリオンから手を放し、身を翻えそうとする。


「アリオン!?」


 そのとき不意に耳朶を打った懐かしい声に、アリオンは引きずられるように視線を移した。視界の端に映ったディアギレフの顔から、笑みが抜け落ちる。


「どうして君がここに!? アリオン!」


「っオルテガ……」


 父の、元部下。訃報を携えてきたのも、彼だった。《海の女王号》はアルミリアの軍船だ。彼が乗っていてもおかしくはない。


 エンジェルの手に囚われているアリオンの姿を認めた途端、彼は整った若々しい正義感に満ちた顔をゆがめる。「蛮族め!」


 横付けされた船から乗り移ったオルテガを認めた瞬間、ディアギレフは床を蹴り走り出していた。容赦なくオルテガに切りかかる。迷いのないその動きに、アリオンは凍りついた。年若い士官は何とか刃を受け止める。


「君たちが、彼女を攫ったのか!?」

「あの子が自ら来たんだ、お坊ちゃん」


 揶揄するようにディアギレフは厭らしく囁いた。剣を引きざま足払いをかけ、オルテガを甲板に転がす。一切の動きに躊躇いがなく、オルテガを殺そうと動く。

 アリオンにはそれが、目にすることのなかった父の最期と被った。被ってしまった。


「『止めろ!』」「ッ!!?」


 アリオンの言霊は的確にディアギレフのみに作用する。ぶれた男の剣先は、オルテガの肩口を掠めていった。血は噴き出すが、傷自体は浅い。

 男は全身を強張らせ、そして、そのたった一瞬の空隙が、戦場での彼の絶望的な落ち度になった。


「ッ止せ……ッ!」


 自分の過ちに気付き、叫んだところでもう遅い。エンジェルの手を振り払っても。アリオンの言葉に効果はない。オルテガはアリオンの王ではないのだから。走り出した足は、鉛のように重かった。心臓が早鐘を打ち、けれど身体の末端は痺れるように冷たい。


(いやだ、どうして、待ってよ何で)


 ディアギレフを止めたかった。でも違う、違うの。


 こんな結果を、望んだわけじゃ。


 オルテガの握ったサーベルの刃が、まっすぐにディアギレフの腹部に吸い込まれた。


「お頭……ッ!!!」


 絶叫、絶叫、オー・スクエアの船員の悲鳴が、脳の中で乱反射する。引き抜かれた白刃には、べったりとディアギレフの血がついていた。


 アリオンは人魚だ。契約した人間が有する、船を守る。もし契約が完全に履行されていたならば、アリオンはこの船に及ぶ全ての累を断ち切れた。けれど不完全なアリオンでは、それができない。声で船を支配できない。


 大切なものを、この手では何ひとつ守れない。


「ディーッ!」



 ――守りたかった、ものは何。



 地面が揺れる、船が揺れる。

 アリオンの叫びに呼応するように、突如現れた高波が全てを呑み込んだ。



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