ケダモノの冷たい眼差し


 溢れる光とともに飛び込んできた光景は、陰惨のひと言に尽きた。

 いくら剣を振り回してみせても、実際にアリオンが血濡れた場所へ立ったことはない。実情はたやすく想像を超え、アリオンを追い詰めた。


 甲板を流れる夥しい血と、転がる死体と。血の臭いが肺まで満たしていく。さわやかな潮風は一体どこに? 後ずさり、危うく階段から転がり落ちかける。


「ッ!」


 咄嗟に身体を支え、安堵しかけたところを、真横に身体が突っ込んできて壁にぶち当たる。血しぶきが、髪に頬に、かかった。

 うめき声を上げ、その男は身体を起こす。着ている服に身に覚えがあり、アリオンは目を見張る。


「アルミリア、海軍……?」


 海軍、軍服。血に汚れているが、はっきりと身に覚えがある。似たような衣装を父が着ていた。勲章やモールなどが付いた父の衣装は、これよりもずっと豪華だったが。


 ぽつりと落とした言葉に反応したのか、赤に濡れた頭がゆるりとこちらを向いた。


「にん、ぎょ……?」


 ふらりと伸ばされた手は、アリオンに触れることはなかった。何者かに腰を攫われ、引き離される。目を覆われ、その半拍前に、その手が刃に貫かれるのを見る。


「穢れた手で触ろうとすんじゃねえよ」


 低く唸りをあげたのは、イサクだった。刀を引き抜き、無造作に敵の首を掻き切る。迸る血を嫌そうに避けながら、彼はアリオンを羽交い絞めにしているエンジェルに尖った声を向けた。


「なんでお姫さま、出てきてんだ?」

「ごめんなさい。……つい、動揺、して」


 言葉を濁すエンジェルに、何事かあったことは悟ったらしい。戻してこいよ、と彼は短く告げた。


「ここでディーを狙われちゃ堪らない」

「あいつ、はっ」


 アリオンはエンジェルの手をむしり取る。「無事なのか!?」


 ぞっとする光景がまた目の前に展開されたが、胃がひっくり返りそうになるのをアリオンは必死に耐えた。

 目を走らせると、混戦の状況にもかかわらず意外なほどあっけなく目当ては見つかった。彼は戦闘の中心に身を置いていた。着物を着ているせいで、彼がディアギレフであることを、はっきりと周囲に示してしまっているのだろう。


 すべてが赤に沈むなかで、ひと際鮮烈な色を放つそれ。頭髪が光を受けて輝いて、まるで彼自身が光を放つ太陽のよう。

 多くの死体を踏みつけにしてもそれを武勇と賛美に変えられるような、そんな勇猛さを男は持っていた。

 オー・スクエアの乗組員を鼓舞して怒鳴りあげる声は、激しい音のさなかにあっても軍神が轟かすそれのように、はっきりと響きわたっている。


「アルミリアなんぞ海に蹴落として海獣の餌だ! 一匹たりとも生きて帰すな!」


 ディアギレフはイサクが持つものとそっくりな剣を振り回しながら、向かってくる男たちを蹴散らしていく。サングラスが外れて顕わになった瞳は瞳孔が開ききっていて、はっきりとした興奮に彩られている。獣じみた笑みがくちびるには乗り、彼は心底殺しあいを楽しんでいた。


 しかしそうやって興奮していても、身体に溜まっていた疲労からはそう簡単に振り払えないようだった。剣から血を払いざま、ディアギレフは大きく肩で息をする。敵はその隙を見逃さない。


 アリオンは身を乗り出し、咄嗟に大声で叫んでいた。


「後ろ!」


 振りかえったディアギレフは、一瞬にして白い軍服を血に染めた。そしてアリオンを見、愉快そうに瞳を眇める。


「気ィ、抜く、な!」


 上げた声は甲高く、ほとんど悲鳴じみていた。エンジェルの手から抜け出そうともがく。けれどますます拘束は強まるばかりだった。


 ディアギレフは敵の間を潜りぬけて、こちらに来ようとしている。


「わっ、来るな!」


 イサクは慌てるが、あっという間にディアギレフはアリオンの前に立つ。アリオンはエンジェルに口を塞がれた。


「っふ、はは。そこまで警戒しなくても」


 ディアギレフは快活に笑い、しかしその目は敵に対する残忍さを残したままだった。抜き身の剣も、手にしたまま。ぽたぽたと刃を伝って、斬った人間の血が板張りの甲板へ吸い込まれる。イサクに戦闘の指揮を任せ、男はその場に留まる。


「どうやって抜け出してきたのかな。扉は無事だろうね」

「ごめんなさい、お頭。アリオンが……泣いたから。お頭のところへ行きたいって。誰にも殺させないって。てっきり、記憶が戻ったんだって、開けちゃったのよ……」


 エンジェルはぎこちなく懺悔する。それがまさか、「(自分以外の)誰にも殺させない」という意味での言葉だとは、エンジェルは想像もしなかったろう。

 ディアギレフはやれやれと、ため息をついた。


「お前さん、とんだ役者だねぇ。引っ込んでればいいのにわざわざエンジェルちゃん騙してまで、こんな危ないところに出てきたんだ? 自分がなんだか自覚がないの?」


 かっとしたアリオンは反駁しようとしたが、口は塞がれていて間抜けな音にしかならない。せめてと男を睨みつけると、外してやりな、とあっさりと男は言った。


「でも、……お頭、」

「今すぐこの子に心臓を止められるわけじゃない」


 エンジェルは渋々手を離す。


「ッ危ないとか言うくらいなら、さっさと馬鹿げた海賊行為を止めろ!」

「あらら。ほんと何も分かってないお馬鹿さんだ。分かんないの? 襲われてんのは俺たちの方」 「はあ?」

「アルミリア海軍に、襲われてんの。俺たち別に、どっこの船も襲ってないですー」


 おどけたように口を尖らせられ、沸点を一気に越えるのを感じた。


「だったら日ごろの報いだな! お前たちが海軍に捕まるのは当然だ!」

「襲ってないって言ってるでしょー? それは今日に限った話じゃなくて、今まですべてひっくるめて話してる」

「嘘つくな!」

「嘘つきはお前さんの方だろ? エンジェルちゃん騙して」

「嘘は言ってない!」


「俺も一度も、お前に嘘なんてついたことないよ」


 そこは真顔で言いきられるので、アリオンは続ける言葉を咄嗟に見失っていた。そしてそのままディアギレフは、今まで一度もアリオンに聞かせたことのない、低く威圧に満ちた声を出した。軽薄で、アリオンを甘やかす雰囲気の一切は払拭されて、今の不安定なアリオンを委縮させるには充分だった。


 獰猛で冷たい、けだもの。


 アリオンの知らない彼がいた。


「……下らないことで手を煩わせるな。いまはお前にかまってやる暇はない」


 いつもアリオンをからかう間延びした声も、眠たげな笑顔も、なにもない。隠されてきたのだと、今更気づく。

 にこにことしながら、その実ディアギレフはひどく激昂していたのだと、ようやっと思い知った。「戻せ、終わるまで、何をやらかしも閉じ込めておけ。こいつは状況が何も分かっちゃいないんだ」


 向けられる背に、アリオンは硬直する。

 ああまた、――また、だ。


 視界がぶれ、足から力が抜ける。エンジェルがアリオンを連れようと抱えなおして、初めて凍りついていた声帯が機能する。

 逃げようと暴れ、必死に声だけで男に追い縋る。


「でぃ、ま、って、」


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