最低

「ふざけるなよ……」


 歯ぎしりしたアリオンは、怒鳴りやった。


「今すぐ止めさせろ! なんで今、死にに行くような真似をする……!」


 ぼろぼろで、ふらふらで。確かにそうまでしたのは指摘された通りにアリオンの言葉だけれど、脳裏を巡るのは刃に斃れる男の姿だ。

 真っ赤な着物を纏った男が、アリオンに背を向けた男が、それだけでもう肺が潰れて息ができなくなりそうなのに、ゆるりと傾いで永遠のさよならを。


 アリオンに何ひとつ告げずに、死んでいく。


「いや、だ、」


 ずるりとアリオンは床に崩れる。へたり込んで、繰り返す。「……いや、」


 こんなところに閉じ込められては、アリオンは何もできない。いまこの瞬間にもアリオンの人生は意味を失うかもしれないのに。


 誰にも渡さない。あの男の生も、死も、ぜんぶアリオンのものだ。

 アリオンのために死なないと、駄目なのに。


「……開けて。ねぇ、エンジェル、開けて」


 哀れっぽく、せいぜいそう聞こえるよう、アリオンは力なく扉を叩いた。


「傍に、行かせてよ。ディーの、傍。こんなとこ閉じ込めて、ひど、い……」


 瞬きをしないように目を見開き、泣き真似をしながらぐずりと鼻を啜る。


 あの書庫で、――ディアギレフがアリオンに告げたことが事実なら。

 アリオンはこの船に乗っていたことがある。乗組員たちはアリオンを知っている。アリオンを愛している。そう告げた、人たち。

 もしかしたら、エンジェルもそうなのかもしれない。


 これは、賭けだった。


「こわい、の。ここに、アリオンだけにしないで。置いていかないで。ずっと、傍にいるって、ディーの人魚になるって、やくそく、したの……!」


 覚えているでしょう、ここから出して。


 舌っ足らずに、幼げに、取乱したように口走れば、外の気配がはっきりと動揺した。熱に浮かされたような気分になりながら、なおもアリオンは呟く。だんだん朦朧としてきて、何を言っているのか自分でもわからない。


 哀しくて、怖くて、演技が演技でなくなっていく。

 混乱して、涙が零れて、さすが自分、と思った端から、何のために流した涙か曖昧になる。


 二重にアリオンは呆然とし、思わず息を止めた。

 ここにいるのが誰か、分からなくて。


 混乱するアリオンに、エンジェルが声を震わせながら、訊いた。


「思い出したの? アリオン……」


 あ、――ああ。


 この人は、ちいさいころの自分を、知っているんだ。

 どんな子どもだったのか、知っているんだ。


 賭けに勝ったのだ、とアリオンは思い、そして、――自分を取り戻した。


「ディーのところに、いかせて。誰にも、殺させ、ない……」


 忙しなく扉は開かれた。

 大きく戸を開いて、立ちすくむ大人。

 アリオン、と呟いて、それきりなにも言えない。


 罪悪感がちくりと胸を苛んだが、アリオンはすぐにそれをなかったことにした。

 立ち上がり、ゆっくりと憫笑して見せた。


「君は、……優しい人だなあ」

「アリ、オン……?」

「ごめんな」


 嘘つきで、卑怯もの。いい加減もう、アリオンのことなど諦めてしまえばいいのに。過去の自分なんて、もうきっとアリオンの僅かな部分しかないし、そしてそれを利用できるくらい、いまのアリオンは嫌な奴だ。


 多分一番やってはいけないこと。神聖な領域を犯すということ。それを今、アリオンはした。


「……僕は何も、覚えちゃいないよ」

「っアリオン!」


 軽やかな身のこなしで、アリオンはエンジェルの横をすり抜けた。彼女はアリオンの動きに反応できなかった。

 この部屋から出るため、自分が、ディアギレフを殺すため。アリオンは彼女の思い出を利用した。


 罵られたとしても、アリオンはきっとわらうだけだ。


 甲板に続く階段を駆け上る。外に近づくごとに硝煙と血の臭いが濃くなった。金属のせめぎ合う音と罵声が激しく、眩暈がした。


 扉を横に引く。

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