消えない感触と羞恥心
ディアギレフがエミリーナを伴って船室に続く扉の中に消えたあとも、アリオンは背を強張らせたままで、イサクはその背を宥めるように叩いた。
我に返り、アリオンはひとつ息をついて鼻を鳴らした。
「……なにあれ、感じわるいな」
「ある意味アリオンも大概だと思うけどねー」
混ぜ返してくるイサクにうるさい、と返す。
「ま、いいや、行こう。客の前で殺してやるわけにもいかないし」
「待て、お頭が戻ってくるまで待ってろ」
「え、コックス、あれが戻ってくると思ってるの? いつまで待たされると思ってんの。もしかして一発キメるまで待てって言ってる?」
「止めろお前!」
アリオンの下品な言葉遣いと手ぶりに、コックスは悲鳴を上げた。
「その顔でやめろ!」
「うはは、どこで覚えたのそんな言葉」
「顔は関係ないだろ。ここ、男しかいないんだぞ。自然と覚えるよ、そのくらい」
「つーかいいの? アリオン的に。ディーが他の女とそういうことして」
「僕には関係ないね。他の女って言い方止めろよ。普通は、あー……。――僕とあいつが、……みたいに聞こえるだろ」
口に出すのもおぞましく、アリオンは口ごもる。イサクは何をいまさら、と言いただ気なあっさりした口調で返してきた。
「そう言ってるけど」
「気持ち悪い、殴るぞ」
腹に軽く拳を入れると、大げさにイサクは身をくねらせて逃げる。アリオンはそれを追いかけて、彼の腰に腕を回した。
「あはは、ヤメテ」
ぐしゃくしゃと髪を掻きまわされ、くつくつとアリオンは笑う。
「楽しそうだね、お前さんは」
苛立たしそうな声がごく近くで響く。思わず、反射的に身構えてしまう。イサクを盾にし、気持ちを落ち着けたあと、皮肉を準備して顔を上げた。
「驚いた。まさか本当に戻ってくるなんて。レディをほったらかしてきたのか?」
手を伸ばせば触れられる距離に、ディアギレフが立っていた。近くで見るとやはりまだ、熱があるようだった。
「お前に心配されるような関係じゃないんでね」
「ああそれは失礼、出過ぎた真似をしたようだ。口を挟むのは野暮だった。別に隠す必要もないと思うけどね。人妻はちょっと不道徳かなと思うけど、僕には関係ない話だし。それで? わざわざ病み上がりの身体を押して、殺されに来たなんて殊勝だな」
「その前に口を塞がれたくなかったら黙ってろ」
思考が止まる。達者な弁舌も、この切り返しには対応できなかった。咄嗟に、ディアギレフの唇に目が行った。
かさついた唇がすぐに潤いを持ってアリオンのそれに吸いついたこと、その舌の苦み交じった甘さをまざまざと思いだす。
忘れてしまいたいくらいなのにアリオンにとっての初めてのそれは、いつまでたっても記憶から薄れてくれないのだ。
体温が急に上昇したらしい。身体も、声も震えた。
「おっ、まえ……。そんなこと、してみろ。し、した、かみきってやる……」
驚いて瞬いたサファイア、蕩けるように甘い声で男はアリオンを刺した。
「はは、口で塞ぐなんて誰が言った?」
「――ッ」
ぐわ、と羞恥と混乱で頭が茹だる。そうだ、そのとおりだ。
「ぅ、あ」
今すぐ消えたい、とアリオンは思った。
そして震えるしかない子どもに向かって、ディアギレフは容赦なく追い打ちをかける。
「お前さん、結構うぬぼれだね」
ああ、もう恥ずかしくて声も出ない。
どういう反応が正解なのかわからない。しかしディアギレフはにやにやと楽しそうに笑っている。最高のおもちゃを手に入れたときの表情だ。
「お前が望むなら幾らでもくれてやるよ」
すっかり脱力したアリオンをやすやすとイサクの後ろから引っ張り出し、男は少女の腰を抱く。呼気が触れるほどお互いの顔が近づいて、ようやく自分の現状にアリオンは気づいた。間一髪のところで、アリオンはディアギレフの顔を押し返す。
「っぼくにこんなことするな!」
すっかり動揺して裏返った声で叫ぶアリオンに、ディアギレフは言う。
「お前以外にする子もいないでしょ」
アリオンの脳裏にエミリーナの姿がよぎった。「う、浮気者!」
「俺はいつだって一筋だけど?」「じゃあやめろよ!」
顔を押さえたアリオンの手首を握り、男は何度もてのひらに口づけを落としてくる。
「――っぁ、や、も、」
もうやめて、すっかり泣きそうになりながら、アリオンはもう片方の手も使って男の顔を引き離そうとする。濡れたくちびるの感触が気持ちわるい。こんなのひどい。この前みたいにくちびるを当てられた場所からじわりと身体がしびれてくる。こんなの殴られた方がいくらかマシだ。
逃げようとすると容赦なく押さえ込まれる。怪我人のくせに、なんて力だ。
「やだぁ……っ」
「動けるってことは、ほんとは嫌じゃないね」
違う、ああくそ、声に力が入らない。それだけなのに。声さえ出れば、こんなクソ野郎、すぐに動けなくさせてやるのに。
「ちょ、イサ……コッ、ひぃっ」
黙って見てないでなんとかしろよ! 目線で男の部下二人に助けを求めると、今度こそぐいと手を引き剥がされ、後頭部を掴んで強制的に視線を合わせられる。飢えた獣のような眼差しだった。
「無粋な真似しなさんな、こっちだけ見てな」
食いつかれる、と反射的に目を閉じる。しかし、恐れていた瞬間は来なかった。アリオンの求めに応じたイサクとコックスが、ディアギレフを引き離してくれたからだ。両脇を羽交い絞めにされている。アリオンは甲板に尻もちをつき、肩で息をついた。助かった。
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