欲しかったのは、


「――貴様は何を知っている?」「何も?」


 いつものことだ。ディアギレフは今にも死にそうな状況だというのに、アリオンの恫喝にもまるで動じない。男は飄々と、綺麗に口角を上げて微笑んだ。


「しらばっくれんな! 貴様は変なことばかり言う! 前にコックスが貸してくれた本には詳しく載ってなかったから、自分で調べたぞ! 人魚の声に縛られるのは契約した人間だけだ。僕と契約してない貴様が、僕の言葉で死ねる訳がないっそれに!」


「まだあるの」


 アリオンはややげんなりとしたディアギレフの眼前に一枚の紙を突きつけた。


『お別れだ 俺の人魚姫』


 ディアギレフが紙に書かれた母国語を読むより早く、アリオンが喧嘩腰で読み上げた。男の発音を真似ているとはいえ、すこしばかり拙い言い回し。本当はアリオンも知っていて当然の言葉。知っていた言葉。


「これはどういう意味だ? どうしてこんなことを言った。僕は! 君の人魚じゃない……っ!」


 感情が高ぶったのか、アリオンの語尾が震えた。泣くかと身構えたディアギレフだったが、予想に反して少女は唇を引き結んでそれに耐えた。


「……よく調べたね」


 ディアギレフの言葉の意味を、アリオンが分かるはずもない。彼女は倭国語をすっかり忘れていたから。その上で、告げていたのに。


「イサクに、教えてもらった」


 奥歯を噛んで、押し殺した声音でアリオンは答える。

 なるほど、紙の文字はイサクに書いてもらったものなわけだ。


「わからないことが多すぎて、頭が変になりそうだ……。お前は何か知ってるんだろう。知ってるならさっさと話せ!」


 ナイフを持ったままの手で、アリオンはディアギレフの首を揺さぶった。

 違和感に少女はもう気づいている。気づいていて、なのに自分の掌のなかに答えがないことに傷ついている。


 はぐらかしてやろうかとも思ったがいい加減そんな気も失せて、ディアギレフはそこまで言うなら教えてやってもいい気がしていた。


 答えが紡がれたところで、真実を思い出すわけでもないのだから。


「……お前は母親に連れられて、倭国に帰る途中だった。俺は偶然お前たちに出逢って、お前が人魚だと知った。人魚が欲しかった俺はお前と契約しようとして、し損なって、――お前の母親を殺した」


 少女の瞳が零れんばかりに見開かれる。両手を握り締めたせいで、ナイフの刃が首に食い込んで、小さな痛みとともに皮膚が裂けて血が滲んだ。


「それで、今度はチチオヤだよ。俺から逃げたお前を屋敷に連れ帰って誰の目にも触れさせやしない。あっちも俺を始末しようとするから、俺も構わず殺してやった」


 能うかぎり愉しげに、粗野に、男は告げる。言葉にしてしまえば、こんなに短いこと。

 どんな反応を見せるかと瞳を覗けば紅いそれは焦点を欠いて、どこを見ているとも判断がつかない。


「――嘘だ……」


 やっとものを言ったと思えば、そんな馬鹿げた言葉だ。


「嘘、だ。そんなの。だって、僕は覚えてない。あんたなんか覚えてない。っなんで? ママを、殺したのも、あんたなの?」


 少女は手からナイフを落とす。震える指先で男のシャツの胸元を掴む。


 どうしても否定が聞きたくて。


 なのに与えられるのは残酷な言葉たちばかりだ。


「そう、俺。お前の幸せを奪ったのは全部俺。――よかったねぇ、アリオン。俺を恨む理由がまたひとつ増えた」


 幼子をなだめるように、頭を撫でていくてのひら。少女はこの手を、あのとき知っているような気がしていた。

 歪む視界のなか少女は声を絞る。


「違うッ! っ僕は! こんな答えを望んでたんじゃない……!」


「……アリオン。お前は俺に、何を期待してたの?」


 笑みを消した静かな声で、男は訊ねた。彼にとって、こんな傷つき方は予想外だった。

 少女が抵抗しないのをいいことに、ディアギレフは身体を起こす。膝にアリオンを乗せ、狭い通路の壁に凭れた。


「俺が最低な野郎だってことは最初から知ってたじゃない。これ聞いて何で泣く方に行っちゃうのよ。俺がそんな優しい男に見えたかな」

「うるせぇよ! 僕だってわけが分からない! 何も考えないように、それだけが正しいって分かってるのに、なんで、こんな風になるんだ!? やるべきことは分かってる、なのに、ぐるぐる思考が、邪魔を、するんだ――――!」


 それは、幼いアリオンが、深層で叫んでいるからか。

 理性でいくら言い聞かせたところで、どうにもならないことはある――。


「何を聞いたところで、することは変わらない。変わるはずもない、なのに、貴様が肯定したりするから! なあ、あんた、死にたいの? ねえ死にたいの!?」


 煙管を吸おうと男は手を伸ばしたが、既に火は消えたあとだった。ため息を吐いて手を投げ出す。


 結局すべてが無駄な努力だったと、彼は何度も知らしめられている。


「今はどうだっていい。死のうが死ぬまいが、人魚は手に入らなかったし」

「僕ならここにいるだろうが!」

「違うよ。――……お前じゃない、」


 男はアリオンから視線を外し、同じ言葉を繰り返した。


「俺が欲しかったのはお前じゃない」


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