過去の身じろぎ、されど捨て去り

「俺が欲しかったのはお前じゃない」


 少女は息を呑み、やがてゆっくりと諦めたように憫笑した。


「ママを殺して、父さまを殺して……。そこまでしたくせに、僕じゃないって言うのか」

「言うよ、何度だって言ってやる」


 欲しかったのは、この瞳じゃない。

 殺意ではなく、彼を慕う瞳のはずだった。

 かつて無邪気に、嬉し気に、彼を見つめたまだ青い瞳。彼を呼ぶ声。

 抱き上げて、とねだったかわいらしい稚魚が、成長して彼の名を憎しみとして呼ぶ日をどうして想像できただろう。「僕は、」


「もう何も言わないでよ頼むから」


 幾分憔悴した声で、ディアギレフは遮った。


「アリオン、お前の復讐したいって気持ちはその程度? 些細なことで揺らぐほどのもの? 違うでしょ?」

「違う! 違うけど、これは些細じゃないだろう! 全部話せ詳しく話せまだ何かお前は隠してる! 話さないなら!」


 ぐっとアリオンは握りなおしたナイフを持った指に力を入れた。「話せるような身体にしてやる」


 今までのアリオンの態度から見ても、それがただの脅しではないことくらい予想がつくはずだ。それなのに上手く切り抜ける自信でもあるのか、恫喝にもディアギレフは反応しなかった。


 アリオンは頭に血を昇らせる。顎を掴み、無理やり自分のほうへ視線を向かせた。


 この男――――自分本位にもほどがある!


「こちらを見ろ! 貴様がどの人魚が欲しかったか知らないが――――、今! 貴様と話しているのは! この! 僕だ!」


 視線を合わせ、もう一度アリオンは低めた声で唸った。「――――話せ!」


「教えたところで、思い出せやしないのに」

「だからどうした!?」

「……じゃあどうする? 俺たちは確かに逢ったことがあるよ。アリオン、ちいさなお前は俺のことが大好きだった。……なあ、こう言ってお前は信じられる? 信じられたとしても、消し去りたいくらい不快でしょ? 思い出したとしてもろくなことがない。忘れたのはお前に必要ないからだ。――――要らないんだよ、アリオン」


「――ッ!」


 肩を強張らせてその言葉を聞き、アリオンは不意に涙をこぼした。声をあげることはしない。


「それは誰の、涙? アリオン」


 それはアリオンの知らない、彼女の中で蹲る、ちいさな。


「俺のことを知らないと言ったね、お前は。そんなはずはないのに。覚えてないなんて、よくもそんな残酷なことが言える……」


 喉の奥で嗚咽を噛み殺して、アリオンはなんとか喋ろうとした。けれどやはり言葉にならなくて、ディアギレフを睨む。

 何度も要らないと、思い出さなくていいと言われた。そのくせ、ちらりちらりと何かを匂わせ、翻弄するのはこの男だ。アリオンが興味を引くように。


 それなのにさも慮ったと言わんばかりのこの態度!


「死ねって言われるより、キツいよ」


 男は少女の身体を脇に避け、立ち上がった。


「話は終わりだアリオン。……限界だ」


 ぼんやりとした少女の視界に、紅が翻る。ずくりずくりとこめかみが痛む。幼い過去が身じろぎする。

 去っていく男の金によく映えた着物の色。


 ――行かないで


 哀しくて、淋しくてさびしくて


「ディー!」



    あ の と き も あ な た は せ を む け た。



 咄嗟に着物の裾を掴む。

 驚いた表情でディアギレフが振り返る。

 

 裾を握ったアリオンを見て、その表情が途方に暮れたものに変わる。

 

 あのとき伸ばした手は届かなくて、彼はそのまま去っていった。

 もう二度と逢えないよ、と『男』は言った。

 忘れてしまうのを止められなかった、この幼いちからでは。


「……アリオン」


 膝をついた男に、アリオンは抱き締められていた。

 遠い異国の言葉で沢山のことをささめかれ、そのたびに身体に回された腕の力が強くなる。苦しいほどの抱擁にはっとして、ようやくアリオンは自我を取り戻した。


 過去はあっという間に遠ざかる。


 身じろいだアリオンに、ディアギレフも我に返ったように身を引いた。


「……どうしようもないんだよ、アリオン。俺たちは変わったんだ。何もかも知ってしまったとしても、お前は俺を憎むのを止められない」


 それはきっと、彼女が父親の真意を知ったとき、彼を恨みきれはしないように。


 この人魚は情の深い子だ。


 だからディアギレフはアリオンの代わりに、その心を守ってやる義務がある。

 それがかつて、幼い少女へしでかしてしまった過ちの清算になるなら。

 覚えていなくていいのだ、あの日始まった運命の捻じれ、けれど十年の日々を飛び越えてやり直すことができるなど都合がよすぎる幻想だった。


 何より最後に少女が男に見せたのはこれ以上ないほどの糾弾と哀しみで、決して幸せなものではなかったのに。再会したらすべてはうまくいくなんて、おこがましいにもほどがある。

 だからアリオンが今まで幸せであったことに本当は彼は心底安堵していて、それが守られるなら忘れ去られたままでも構わないと思うのだ。――その果てに待つのが死であっても。


「だからアリオン、これ以上、変わるんじゃない。すべて、忘れたままでいてお出で」


 すっと男は、アリオンから離れた。


 濡れた少女の紅い瞳を見つめる。「アリオン、お前さんは何でこの船に乗った?」

「――貴様を、殺すため」


 ようよう、アリオンは意思の籠もった声を取り戻した。


「そう。その目的まで忘れちゃいけないよ。今度こそ大切なものを、見失っちゃいけない」


 アリオンは一度瞬いた。

 涙の最後の一粒が、子どもの丸い頬を流れて消えた。

 それが、アリオンがディアギレフに捧げた最後の情だった。


「――――――その、通りだ」


 凄絶に、少女は嗤った。


「……貴様が僕の何であったとしても、もう、全部、過去だ。確かにいらないな、そんなもの」


 立ち上がった少女の足の下で、がつりと硬い音が鳴った。

 煙管だ。


 ディアギレフはそこで、床に煙管を転がしたままであることを思い出した。煙管は吸口が欠けてしまっている様だった。

 先ほど少女が言った台詞が蘇る。気疲れする会話を延々続けたせいで、きっかけとなったその言葉をずいぶん昔に聞いたような気がした。


「……これがなかったら、俺、死んじゃうってのに」


 それに対してのアリオンの返答は、ひどく冷めたものだった。

 激昂するばかりだった殺意が澱となって折り重なり、揺るぎなく純粋なものになる。


「結構なことじゃないかディアギレフ。さっさと死んじまえよ」


 そして薄い笑みを浮かべたまま、少女は全体重をかけて煙管を踏み潰した。


 それに男は、近い将来、確実に訪れる死を実感したのだ――――。


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