第三航海

運命は遠にはじまっていて


 甲板に出ると、貧血に似た症状がディアギレフを襲う。容赦なく照らしてくる日差しの強さに、彼は浅く呼吸した。ダルそうに壁に背を預け、頭を俯けた彼の横顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。手癖で煙管を吸おうと手を持ち上げ、そこに何もないことに気づいて自分を嗤った。


 船長が現れたことに気づいた船員たちが慌ただしく彼の元に駆け寄ってきて、一様に困惑した顔になる。


「……お頭」


「ん、んー? どうかしたー?」


 通常よりももったりした口調で、男は訊ねる。

 億劫そうに身を立て部下たちを眺め下ろす男に、疑問は投げかけられた。


「今日も脱いでるんですか? 羽織り」


 歯切れの悪い質問に、ああ、とたった今思い至ったようにディアギレフは声を上げた。


「最近、なんかもの言いたげだと思ったよ」


 ディアギレフはいつもは人の目を引く緋色の着物を羽織っている。精緻に刺繍された模様は蝶だったり華だったりと実に様々だが、緋色である点はいつも一貫していてディアギレフのトレードマークとなっていた。


 好戦的なこの男は、自身が戦場において目立つことをなによりも優先している。


 オー・スクエアの船長ディアギレフを狙いたければ、緋の海獣を探せばいい、一等際立つ奇矯ななりをした、最も凶暴な男がそれだから――とは海の上でのうわさ話だ。


 とはいえ、今日の格好はそれを脱いだだけの、白のドレスシャツに、すっきりとした黒いパンツを合わせただけの適当な格好だったが。

 ただ簡素だからこそ、男の元の造作や体格の良さを明らかにするところでもあった。


「なるほどね、俺の格好を気にしてたわけだ」


 男は苦笑わらって軽くシャツの襟を引っ張った。


「ちょっとアリオンたら、俺の倭服に見覚えがあるみたいなんだよねえ。そんな配慮ももう要らないんだろうけど……。あんまり刺激しないように、しばらく着物は控えようかと」


 アリオンが船に乗り込んできて二日間は派手に殺し合いをした。三日目アリオンに遭遇したとき、彼女は一言も怒鳴らなかった。死ねだの殺すだの喚いていた子どもは、そういった類の言葉を、もう口の端には上らせなかった。二日目の深夜の邂逅がよくなかったのだろう。

 お前が死ねといったなら、そのディアギレフの台詞が胸の中に凝っていたのは間違いない。


 けれどその呪文の効果は、一日と持たずに消えた。男が自ら消したのだ。そうした瞬間の、透徹とした子どもの眼差しを、ディアギレフは脳裏に描いたままだ。


 次に会ったとき、アリオンは確信的に『言葉』を使うようになっていた。


 認めたくはないようだったが、それが一番効くのだとアリオンは了解したようだった。

 頭に血が上るまま物騒な台詞だけを喚いていた子どもは、ディアギレフを縛る言葉を効果的に使い、殺さんとナイフを振るった。


 意思を込めてアリオンから放たれた言葉は、ディアギレフの身体に作用する。

 止まれ、動くな、はっきりと命じれば、確かにディアギレフの意思に反して男の身体はそうしようとする。


 今はまだ、それはほんの短い時間しか効果がない。けれど殺し合いにおいては足止め程度にはなる。ディアギレフはアリオンよりもはるかに腕が立ったのでその程度の隙はすぐに覆せてしまうのだが、それも時間の問題だった。


 加えてアリオンの吐く憎悪の言葉が男の身体を蝕むからだ。死ね、殺してやると言われるたびに、毒のように重たく身体に溜まる。


 これまでの十年、アリオンが傍にいないことが男と死を近しくしていたが、これからはアリオンが傍にいることが男を死へと至らしめるだろう。


 ふとした瞬間にディアギレフの羽織の緋に流れ、忘我するように引き寄せられていたのが、それをさせる隙を男が自ら消しているのだから尚更だ。

 

 実験のように言葉を操りそれがどのように男に影響を及ぼすか、憎悪を溶かした澄んだ瞳で観察していたアリオン。子どもはもう、心を静かにしてしまったのだと男は悟る。




 そのきっかけは数日前、書庫でアリオンと会ったときに遡った。


 さほど広くはないが、所狭しと並べられたキャビネットにはぎっしりと貴重な書籍や紙の資料が詰め込まれている。アリオンに書庫を使う許可は出していたから、大方鍵はイサクにでも借りたのだろう。船室からスペアが消えていると思っていたのだ。書庫もキャビネットも、鍵がなければ開けられない。


 『人魚の特質~声の魔力~』を、アリオンは灯りを傍らに据えて読んでいた。床に直に座り、ぺったりと尻をつけてページをめくっている。


 初心者向けの読みやすい本だな。


 横目で中身を把握し、ディアギレフは感心する。自分で選んだのなら、なかなか的確に選べている。

 仕舞ったままだった海図を探して適当に移動し、引き出しの鍵を開けては閉めを繰り返し、ぺらぺら紙を開いてみたりしていると、押し殺したアリオンの声が耳に届いた。


「――煙草、止めろよ」


 煙管を咥えたまま、思わず男は少女の方を見やった。露になっている細く、白い首。


 銀の髪は不揃いなまま、切り揃えることなく放置されている。泣く泣く切ろうかと提案したエンジェルに、父が好きだと言ったから、と断っていた話を男は人づてに聞いていた。


 父親、父親、死んでなおアリオンに纏わりつく亡者の影。憎憎しいこと、この上ない。


「これは、これは」


 道化じみた仰々しさで、男は肩を竦めて見せた。自然、口調には皮肉が滲んだ。


「まさか俺の身体の心配をしてもらったのかな」

「ふざけるな」


 振り返ったアリオンの頬には、まだ湿布が貼り付けられていた。ディアギレフは女の顔だろうと構わず殴る。そんな打撲傷が、アリオンの身体にはいくつも刻まれている。それが華奢な少女の肢体を一層痛々しいものに仕上げていた。


 アリオンは人魚、ガワこそ人間と似たように見えるが、その中身は人間とは同一ではない。造りも違えば流れる魔力の質も異なる。ある程度はエンジェルが治癒しているようだが、お互いにとっての負担もあって、過度なもの以外は自然治癒に任せているようであった。


 結局、その方がいいだろう。傷が痛めばアリオンも無茶はしまい。


「紙が燃えたらどうする? 少しは自重したらどうだ」


「……そんな言い方じゃなくて、もっと直接的な言い方をしなさいよ。死ねって。そしたら俺は煙管も止めるよ」

「僕はそんなことが言いたいんじゃない……!」


「何を苛立ってるのかな、お前さんは。生憎俺にはさっぱりだ」

「貴様の方がさっぱりだよ畜生!」


 振りかぶって、アリオンは渾身の力で読みかけの本をディアギレフに投げつけた。首を傾けて男はそれを避け、分厚い本は閉じたキャビネットを派手に揺らして落ちる。


「意味わかんねぇよお前!」「わかる必要もないじゃない」


 ディアギレフは本を拾い、極力目線を合わせるためにアリオンの傍らに片膝をついた。


「ほら、本は高いんだから、もうちょっと丁寧に扱ってく、」「『動くな』」


 空隙、「――っうわ!」


 首に手をかけられ、ディアギレフは気付けは床板に引き倒されていた。


 こうもうまくいくとは思わなかったのだろう、一瞬呆けたもののアリオンはすぐさま眦を険しくさせた。喉元の手はそのままに、仰向けのディアギレフの腹の上にまたがって、さらに喉へナイフを突きつける。


「――貴様は何を知っている?」「何も?」


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