その言葉の意味を、少女は知らない
「……ぼ、僕は謝らないからな!」
「うん? 謝罪も感謝も今しがた聞いたけど」
「それじゃない! それに間違いだって言った!」
「へええ、お前さんは一回言ったことを取り消すような卑怯ものなの」
「っ貴様!」
卑怯ものに卑怯もの呼ばわりされ、アリオンは怒りに声を上擦らせる。
「ああいいさ、だったらその感謝と手を煩わせたことに対する謝罪を、後生大事に墓まで持っていけ! 次に僕が貴様に感謝するのは、貴様が死んだあとだからな!」
「はいはい、分かったって。そんなに怒鳴らなくっても知ってるよ。謝る謝らないのって、さっきのあれでしょ、食堂の」
ディアギレフは船縁に背を預け、紫煙を吐き出した。「……気づいていたのか」
丸め込まれているような気はしつつ、それに歯噛みしながらも訊ねる。
「エンジェルに聞いたよ」
「……」
「――あいつを怒るなよ。心配していたぞ。風呂場にいないようだと、探していた」
「別にそんなつもりないよ。彼は、彼女は……優しい人だ」
別に告げ口をしようと思ったわけではないことくらい、アリオンだってちゃんとわかっている。
ただ、前もって釘をさそうとするやり方には神経を逆撫でられた。
これだけは言っておかねばならないとアリオンは再度声を低くして主張する。
「……僕は謝らないぞ。どんな理由で、貴様を殺したとしてもだ」
「うん、そんときゃどうせ死んでるし、構わない。俺もお前の父親を殺したよ。他の誰でもなく、確かにこの俺が殺したんだ。ちゃあんとこの手で、止めをさした」
「――――」
――その光景を呆然とアリオンは見る。
ひらりと振られる、手。
罪悪感など欠片も覚えていない、穏やかな声。
瞳は優しげにたわんでいるのに、アリオンを見据えるまなざしに温度はない。
あまりにそぐわないちぐはぐな内容と仕草は、ゆっくりとやわらかな果実を絞るようにアリオンの心臓をつぶした。
「でも、アリオン、俺はそれを絶対に謝ったりはしない。アリオンも謝られたくもないでしょ? 俺も同じ気持ちだ」
殊勝な態度を見せられたならなにかが変わるというわけでもない。
それでもこれは酷すぎる。
こともなげに出される言葉に目の前が真っ赤になる。指が震えて、咄嗟に腰に腕が行った。どくどくと鳴る心臓が煩い。全身をめぐる血液が、熱いのかも冷たいのかもわからない。叫び出しそうな喉の塊をなんとか飲み干して、アリオンはナイフからゆっくりと手を離した。
その間、ディアギレフはこともなげに煙管を吸い続けていた。
「……滅びろ」
やっとのことで、アリオンは言葉を絞り出す。男は笑わない瞳のまま、楽しげに手を叩いた。
「いいねぇアリオン! 最高だ! 死ねよりも何十倍も憎まれてる感じがする!」
「感じであってたまるもんか! っ何で殺した!? なんで殺したんだ! 悪いのは海賊のお前なのに、何で父さまが殺されなくちゃならないんだ!」
聞くことはないと分かっているのに、どうしても詰問は止まらなかった。復讐に値する答えを期待したのかもしれない。どんな内容が返ってこようと一緒だと、考えているのは確かなのに。
懺悔し、悔恨に打ち震えている男の頭を踏みつけて、それでもなお死ねと、アリオンは告げたいのだ。
男の尊厳を完膚なきまでに打ち崩したいのだ。それが思い通りにならないから、アリオンは悔しい。
胸ぐらを掴んで揺さぶると、ただ酷薄に男は唇を持ち上げた。優しげな声がそこから紡がれる。
「義が、自分の側にしかないとでも? 馬鹿なこと言いなさんな。子どもだね、アリオン」
「だったら貴様にはあったってのかひと一人、いや、それ以上だろう!? 殺すことを正当化するための大層な大義が!」
「教えない」
哂い、それは突き放すような仕草だった。
ふかされる紫煙のせいで、男の表情は隠れている。
「理由なんてなんの意味も持たないよ、アリオン。聞いたところでなんになる? 赦す理由になるわけでもないでしょ? そんなもの、お前にはいらない。何も知らないままでいい」
――何も、知らないままでいい。
その言葉は、深くアリオンを貫いた。アリオンは息を呑む。
この男が憎らしかった。あの食堂で、背を向けられた時と同じ凶暴な感情が膨れ上がる。
けれどそれは一切が父親に由来しない、ただただアリオンだけに起因するものだ。
あっさりとそんなことを言ってのけるディアギレフが、悲しくて許せなくて。そんなことを言うのなら、死んでアリオンの目の前から消えてくれ、と願ったのだ。
動揺に紅い瞳を揺らがせ、固まった少女の右の手首を取り、彼は意味ありげになぞる。
「――いい父親だったんでしょ」
「――ッ!」
アリオンは手を振り払い、後ずさった。取り返した右の手首には、痣として残った注射痕がいくつも。
血を抜いた痕。血を入れた痕。
「そうだ! 僕を大切に育ててくれた! 僕は人魚だから、なにかあったときに困るからって、そんなときのことまで心配してくれてた!」
これは愛情の痕なのだ。
(――――あれ)
弁明じみた口調でしゃべる自分に微かに疑問が浮き上がる。しかしそれが満足に形になる前に、被せるようにディアギレフは言った。
「だったらいいじゃない」
ゆったりと首を反らし、男は煙を空に吐く。
「大好きな父親を殺した、俺はサイテーな男。――ね? 余計なこと考えてると決心が鈍るよ。お前は優しい子だからね。早く殺しちゃいな」
「……お前、なに言ってるか、自分でわかってんの……?」
「わかってるよ」
やさしい、やさしい、こえだ。
「だってしょーがないでしょ。俺が悪いんだから。お前が幸せだったなんて少しも思わなかったんだからねぇ。潔く諦めて死ねばよかったって、今は後悔してるよ」
「……僕が、不幸だって、――思ってたって?」
「そりゃあね。――人魚が十年も海を忘れて、幸せに生きてたのか?」
自分が悪い、と言いながら、ディアギレフはやわらかい声色でアリオンを責めているのがはっきりと伝わった。
「人魚のくせに、どうしてこうも長いあいだ海に出てこなかったんだ? お前のパパは海軍の提督で、お膳立ては全部されてただろうに」
「だ、――って」
アリオンは言葉に詰まる。
どうしてだろう、そのことはずっとアリオンだって考えていた。
でも父はそれを望まなかったし、アリオンも海に出るのは怖かった。特に、その先にいる――。
「あんたたちが、海賊が、いるから。攫われたら――」
「はっは!」
アリオンが必死で言い募った言葉を、あっさりと男は笑い飛ばした。
「海でお前が危険であるもんか! 人魚のお前に適う奴なんかいない。それこそ同じ、人魚を乗せた船でもなけりゃ。海に出たら、お前は無敵だったのに。お前が海にさえ出てたら、大好きなパパとずっと一緒にいられたんだ。それが望みだったんでしょ」
「でも、僕、父さまとは契約してない――」
「契約しないつもりだったのか?」
驚いたな、と軽く返される声に、どんどんアリオンの胸は重くなっていく。
そうだ、アリオンはそんなことを考えたことはなかった。仮定としてはあったことだけれど、それを実行しようと思ったことは、一度も。それくらい現実味のないことだったのだ。
だから或いは父の船に乗っていたら、と後悔もしたけれど、何度考えてみても、そんな自分を想像ができない。そうする手段も知らなかったのをいいことに、アリオンはいつか、と父から乗船を乞われたときでさえ、首をかしげてきた。
「俺を殺そうとするくらい大好きなパパなのに、海で守ってあげようとは思わなかったのか? お前がいたら、こんな人間みたいな手段でもってわざわざ仇討ちに来る必要もなかっただろうに。殺されてたのは俺だった。間違いなくね」
「あんた、が?」
かた、と指が震えた。アリオンは両手を握りしめる。
これはどこに根差した恐怖だろう。
「そう、お前のパパは今も元気で、お前と楽しく航海してたろうさ。パパの何が不満だったんだ? 地位も大儀も申し分ない男だったじゃないか。人魚と契約するには、他に何が必要なんだ? 教えてくれ」
「わかんない、わかんないよ」
手酷い辱めを受けている気分だった。
この男がアリオンにそれを訊くのは、何かが決定的に間違っている気がしてならない。眦が熱くなるのをアリオンは奥歯を噛んで堪えた。
「どうして? あんた、は。それで、いいの」
「俺を殺したいんだろう?」
船板を蹴り、ディアギレフは身体を起こした。そのまま一歩アリオンに近づき、頭を撫でる。アリオンは突っ立ったまま、その行為を受け入れていた。
夜風に煽られて、髪はもうすっかりと乾いている。
それほど長く外にいたのか。エンジェルが心配するのも当然だ。歌い騒ぐ声ももはや聞こえては来ず、ふたりぼっちで甲板の上。
「やっとちゃんと見れたな。お前の本当の色。今度こそきれいな髪を、褒めてやれると思ってたのに。紅い目に銀は、本当によく映える――」
さらりとディアギレフが銀糸を櫛梳る。一房を手に取って口づける。漂ってくる、ディアギレフの臭い。アリオンの使った石鹸の匂いと、それは混ざって、ほどけて。
「哀しいね、アリオン」
「――っ貴様!」
怒りと羞恥に顔を真っ赤に染め、アリオンは瞬間的にナイフを抜き、髪を叩き切った。
きらきらとほのかな灯りに照らされて、二人の間に銀色が舞う。
『――お別れだ、俺の人魚姫』
異国語で囁かれた言葉が何なのか、少女にはわからない。ただひどく苦しくて痛くて、還元するようにアリオンは叫ぶ。
「死ねよ早く死ね今すぐ死ね!」
――口付けられたときには父親のことを考えていた。父がこの髪を綺麗だと言ってくれたことを。けれどすぐに思考すべてディアギレフのことでいっぱいになる。後悔でいっぱいになる。
「――ッぐ、」
ディアギレフは瞬時、足元を崩した。胸元を押さえ、船縁を掴み、ごまかすように逸らされた顔が無意味な空咳をする。
そしてまたアリオンを見返した表情には、飄々とした余裕を張り付けるのだ。
「ああ、ああ。そうやって、叫べよアリオン」
整わない息にまだ忙しなく胸を喘がせる子どもを見ながら、男は笑うばかりだった。睨みつけても男には露ほどの影響もない。
煙管はもう火が消えて、ディアギレフも吸口を咥えはしなかった。わずかに残った熱でくゆる煙も、すぐに闇にほどけるだろう。
それが、無性に哀しかった。
男は歌うように言う。
「知ってるか、アリオン。――俺を殺すのにナイフはいらない、サーベルもいらない」
それでは一体なにがいるのか。
仰仰しいしぐさで、ディアギレフは両手を広げた。
「死ねって命じなアリオン。そうすりゃ俺は、お前の希望通りに死んでやれる」
ナイフはいらない、サーベルもいらない、――ただお前の声だけで俺は死ねる。
ぶるりとアリオンは身体を震わせた。両腕を胸に抱き、俯いて震えるだけの子どもをしばらく男は黙って見下ろした。
子どもの口からはいつもの威勢のいい言葉は出てこずに、手を下ろした男は面白くなさそうな目をした。
しかしそれ以上男に言うことはなく、踵を返す。
少女の方でも、言える言葉は何もなかった。口から出そうになるのは訳も分からず衝動的に背を向けた男を引き留めそうになる言葉ばかり。
震える手で唇を覆い、アリオンは俯いてナイフを握りしめた。
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