甘い匂い、けれども自覚したならば


 悶々としながら長いこと湯に浸かっていたせいで、知らないうちに慣れない高温の湯に中ってしまっていたらしい。

 朦朧とする意識を抱えながらアリオンはのろのろと着替えた。エンジェルの用意したシャツは随分と大きく、夜着にはぴったりの大きさだったが袖を何度も折り返さないといけないことだけが随分と面倒だ。


 かすかに香ったのがどこかで嗅いだような匂いだった気がして、首をかしげる。どこか甘い、重たい煙の香りだ。


 だが喉元まで出かかっているのに、どうにも思い出せない。


「うーん、頭が上手く動かないな……」


 ぶるぶると頭を振り、そうだ、とアリオンは思い至る。


「風に当たるか……」


 火照った身体を冷まそうと、アリオンは甲板に出ることにする。

 もう夜更けに近かった。天候はどうやらよろしくないらしく、星のひとつも見えやしない。暗くてロープの縄目を掻い潜るのにも苦労する。


 酒を呑み、はしゃいでいた男どもの宴会騒ぎも終焉に近づいているのか、騒ぎは遠い。


 なんとかかんとか舳先まで出て船縁にもたれ、安堵のため息をつきつつ海を見下ろす。黒いタールのようなどろりとした色合いで水面は揺れている。後ろの方でぼんやりと光が踊っていた。船尾に取りつけてある灯りだろう。だがそれよりもっと後方で、別の灯りも見える。オー・スクエアのものにしては遠すぎるので目を凝らすと、昼間見かけた船のものだと判った。


 随分近い場所を航行している。目的地が同じなのだろうか。それとも。ある予感か胸中を過る。ここまでぴったりと寄り添っているわけは。


 海賊船。略奪者。脳裏を点滅する言葉。


「っ!」


 船から身を乗り出し過ぎていたらしい。アリオンはきつくへりを掴んだ。船の揺れは大きく、油断していると真っ逆さまに波に飲み込まれてしまうだろう。たぶん、落ちたとても アリオンが死んでしまうことはないだろうが。


 それでも少しは焦るのかもしれない、あの男は。手中に収めたと思っているアリオンが姿を消したら。


 くっく、と喉の奥で哂い、そのあとありもしない想像で楽しんだ自分に目を眇める。

 どうも頭をすっきりさせるどころか、風呂に入って余計な混乱を連れ出してきたようだ。


「……はあ、」


 瞼を閉じ、頭を振って、アリオンは無駄に遊ばせてしまった思考を切り替える。

 紅い瞳が再び開かれたとき、そこには冴え冴えとした温度だけが残る。

 余計なことにかまけている暇は、わずかすらも、ないのだ。


 どこかにいるかもしれない、いっぴきで泣く人魚のことなんて、なおさらだ。

 可哀想な人魚がいる?

 だから、どうした。

 自分の身すら覚束ないのに、他者の面倒など見ることなどできない。


 アリオンにはなすべきことがあるのだから。


 ――でも、アリオンはどこか、思い知ったような気がしたのだ。


 アリオンと呼ぶ、優しい、嬉しげな、声々を聞いて。

 名誉や我欲のために欲されたのではないような、そう錯覚させるには十分な声だったのだ、この船で聞いたのは。


 アリオンも心ある生き物だから、そのただただ純粋にアリオンを歓迎する船員たちには絆されてしまうのかもしれない。


 いいや、仮令、そうなったとしてもだ、やることは変わらぬと、決めているけれども。


「さむ……」


 今考えるべきなのは、あの男のことだけなのだ。


 夜になると一気に冷え込み、エンジェルに渡された薄いシャツ一枚では肌寒い。のぼせていたといえど、肌の熱はすぐに失われた。それでも中に戻る気はまだ起きず、船縁に乗せた腕に顎を預けた。ぼんやりと聞こえる船員の声声の遠さが、アリオンと彼らの距離だ。


 少しはましになるかと思い、濡れた手拭いで口許を覆う。

 自分に再確認を突きつける。


「あの男は死んで当然だ 」


 すとんとその台詞は胸に落ちた。違和感はなかった。ただただ当たり前だという感触だけが残る。それだけならよかったのに、今のアリオンにはさらに突き詰めなければならない問題があった。


 ディアギレフへの謝罪、という問題である。


 後悔は確かにある。

 けれどそれは、自分のしたことへの恐れだった。

 父の仇討ではなく、ただディアギレフに黙ってほしいというそれだけで、彼を害そうとした自分への恐ろしさ。


 これはディアギレフに対しての、罪悪感ではない。よしんば謝罪をしたところで、人ひとり殺そうした罪が解消されるのか? 違うだろう。


「……どっちにしろ殺人なんだ。どんな感情だってあいつには一緒だ……」


 問題は、アリオンの側だけにある。

 どんな感情で殺せば、男が納得するということはない。

 あのとき、アリオンがどんな感情でナイフを振るったか、あの 男は知らない。

 自分を正当化するための謝罪など、そんなもの、必要ない。

 そして正当化したところで、アリオンのやったことは決して消えはしないのだ。


「……僕は、謝ら、ない」


 船縁に額を打ち付けて、子どもはずるずるとしゃがみこんだ。

 父を殺されてどうしようもなくてやるせなくて、アリオンは私怨だと、最初からわかっていた。それでも男が赦せなかった。この手で同じ苦しみを与えてやりたかった。


 理不尽?


 端からそうだ。

 この殺意は端から――――、理不尽だ。

 殺意なんてはじめから、理不尽に塗れているのだ。

 謝罪なんて、すべきではない。

 いくらこころに凝っても。


 それをすれば、父の命を背負った仇討ちの理由すら、奴に頭を下げることになるのだから。


 ――心は決まった。


 静かにアリオンは目線を上げる。「……アリオン?」


 はっとして、アリオンは肩を大きく揺らした。そこにはディアギレフが立っていた。暗いためか、カラーグラスはかけていない。口端には小さく火を灯した煙管が咥えられており、煙がふわりと黒い空に流れる。それはかすかに甘い臭いを伴っている。


(……何をしに、きた?)


 アリオンは内心で毒づいた。


「お前さん、そんなとこでなにしてんの?」

「お前って言うな、」


 アリオンは膝頭に目をやり、言い捨てる。その応酬は、もう反射になっていた。

 穏やかに脈を刻んでいたはずの心臓が、熱くて冷たい、血液を激しく送り出す。平静を保てなくなっていく。こめかみが痛い。


「アリオン」

「名前も、呼ぶな」


 男は嘆息した。ロープをくぐるかすかな振動がする。


「こっちに来るな近づくな、……触るな!」


 アリオンは荒くなった呼吸の下で言う。肩が大きく上下する。

 決して、ディアギレフの方は見ない。瞳孔が開かれた目には、板目のひとつひとつの模様まではっきり見えた。 


 膝をつき、髪に触れる寸前で、ディアギレフの手は剣幕に気圧されたように止まった。ゆるゆると下ろされる。


「……どうしてほしいわけ? お前さんは」

「っだから呼ぶなって、――ッ!」


 がなったアリオンは、そこで足を踏み鳴らして立ち上がろうとした。だがその勢いは途中で立ち消える。


 突然波が大きく揺れて、身体の均衡を崩される。


 最近こんなことばっかりだ! とアリオンは心のなかで叫んだ。

 けれど地面に手をつく前に、アリオンの身体をディアギレフが浚う。


「――あ」


 大きな手が背中を支え、頬が屈んだ男の硬い腹に押し付けられる。ふーっ、と男が息を吐きだすのに合わせて、ごつごつとしたそこがさらに引き締まり、ぶわりと強くなる、染みついたと思しき煙の匂い。


(あ、この匂い、)


 全身がその匂いに満たされて、ふう、とアリオンは安堵の息をつく。すり、と無意識にそこへと鼻を寄せた。


(僕のシャツと同じ……)


「あっぶないなぁ……、怪我してない? 船の上なんだから、気を付けなさいよ」

「うん……」


 ありすぎる身長差のせいで、抱えられたアリオンは爪先立つような格好で男にもたれている。「……ほら、しっかり立ちな。今度は落ちるぞ、このままじゃ」


 動かないアリオンに焦れたのか背を叩かれ、アリオンはおとなしく地面に踵をつけた。きつい匂いのせいか、頭が少しぼんやりする。


「ごめんなさい、だいじょうぶだよ。ありがとう」


 思わず素でアリオンは礼を言った。返事がないことをいぶかしみ視線を上げると、アリオンの腰を抱いたまま、呆けたように見下ろしてくる男と目が合う。

 すぐにアリオンは自分の醜態を悟り、顔色を変えた。


 今自分は何をした? この男に縋り、甘え、あまつさえ!


 怒りと羞恥で顔を真っ赤にするアリオンに反してディアギレフは平静そのもの、ふっと表情を緩めるとくつくつと笑う。


「ずいぶんかわいいことをしてくれる。お前に礼を言われるとは思わなかったよ」

「ッ茶化すな! いまのは間違いだ! 離せ!」

「はいはい、言われなくても離しますよ」


 乱暴に振り払われても、ディアギレフは小さな子どものわがままに付き合うような調子のままだった。自分がひどく狭量な存在な気がして、唇を噛む。まだ癒えてない薄い皮膚が破れる。


 ふわりと漂う臭いはこの男の残り香か、握りしめたシャツから臭うものなのか、それとも男が手にしている煙草のものなのか。


 意識してしまうと火照った身体がぶわ、と汗を噴き出す。


 やらかしてしまったことがぐるぐると頭をめぐってしょうがないのに、身体が震えるばかりで肝心の行動が何ひとつ起こせない。言葉ひとつ吐き出すことも。


 何のつもりがあってエンジェルはこの服をアリオンによこしたのだろう。

 この大きすぎるシャツは、ディアギレフのものなのだ。

 今すぐ脱ぎ捨ててしまいたかったが、丁寧に植え付けられた貞操観念がそれを許さない。


 はくはくと言葉にならない空気ばかりを押し出す唇を見て、男が促すように「アリオン」と呼んだ。呼ぶな、と反射的に叫ぶ。


 混乱しきって痛む頭が、それを機にずっとしこりにしていた言葉を思い出した。


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