ひらめくのは
そしてその男が騒ぎを聞きつけ、イサクと一緒に
「あはー、何してんの、お前たち。なにごと?」
真っ先に反応したのは、アリオンだった。
「ッディアギレフ!」
激昂が、小さな身体から迸る。
アリオンは背後の男に、容赦なく肘を喰らわせた。
「うぐっ、や、やるわねアリオン……っ」
緩んだ拘束から抜け出すや顧みることもせず、厨を駆けざまアリオンはディアギレフにナイフを投げつけた。顔面を狙ったはずのそれは、届く寸前で煙管に阻まれる。
カン、と角度を変え、地面に落ちる。
「当たれよ糞野郎!」
にやつく男を視界に入れると、ほんの一瞬で脳が真っ白になって沸騰した。一秒でも早く息の根を止めてやらないと気がすまない。
どうしてこの男は今も生きているんだろう?
アリオンの言葉に当たり前に反応して、それを、二度ともうアリオンの父さまはしてくれないのに。
「当たれって言われて当たる阿呆はいないよアリオン」
ディアギレフは一度深く紫煙を吸い、煙管をイサクに手渡した。
心得た風に受け取ったイサクは、その場をさっさと退散する。
下手に巻き込まれてはたまらないからだ。
「お出で。お前の相手をしてあげよう」
「お前って言うな……っ」
「他の奴らだってお前って呼んでるじゃないの。それにアリオンの貴様よりマシ」
「名前も呼ぶんじゃねぇよ虫酸がはしる……っ」
「わがままな子」
挑発するように、ディアギレフは指先で誘う。来いこいと。アリオンはそれにあっさりと引っ掛かり、頬を怒りに染める。
反射的に飛びかかろうとし、息をついてそれを堪える。威嚇ではディアギレフは怯まないし、エネルギーの無駄だ。アリオンは息を整え、皮肉の方向へ感情を持っていく。
「――殺してやるよ、ディアギレフ。残念ながら、ここには誰もアンタの名誉のために戦ってくれる奴はいないようだし」
屈辱的な言葉にも、ディアギレフは平然と肩を竦めただけだった。
「俺の名誉は俺のものだ。自分で回復するよ、アリオン。他の誰にも肩代わりをしてもらう必要はない。してもらいたくもない」
そして緋色の着物が翻る。
「お出で、アリオン」
男の金髪によく映える色だ。
厨から出ていって見えなくなる最後の瞬間まで、毒々しい紅が視界を焼く。
それにアリオンは瞠目した。
不意に、どうしようもなく胸が締め付けられて痛かったので。
ああ、そうだ、僕は……――
肩越しに手を振るこの鮮烈な男を、
「――アリオン?」
びくりと少女は肩を震わせた。四散していた瞳に、勝ち気な理性の色が戻る。追いかけてこない子どもを不審に思った男が、怪訝そうにアリオンを見ている。
ディアギレフは首を撫でながら、眉間に皺を寄せた。気分を害しているというより、困惑した風情で。
「お前、何を泣いているの」
「――あ?」
低い、威嚇めいた声が口腔から落ち、それでもアリオンは目尻を拭った。水滴が手の甲に残る。それは紛れもなく、涙のあとだ。「、何で」
「人に訊いて分かるわけないでしょ」
そりゃそうだ。
ほろほろと音もなく泣きながら、ただ当惑して拭い続けた。
「何がそんなに悲しいの、お姫さま」
「煩い……」
ああ、ああ、何も知らないままでいい。
どうしてそんなことを思ったのかはわからない、けれど、ひたすらに、そう。
「知りたくない……」
「いいよ、知らないままで。忘れちゃえ、そんなもの」
何も知らないはずのディアギレフが、あっけらかんと言ってのける。それがひどく癇に障った。貴様は何も、知らないくせに。
「煩い煩い煩い……っ!」
駄々を捏ねることでしか感情を表現できない子どものように、目の前の男をなじった。気持ちの捌け口に使うために、地面を蹴った。
腰を使って回し蹴りを放つと、身を返してディアギレフは食堂の方へと逃れた。
食堂は一本の通路を左右に分かれた一段高い板の間に、同じく木造りの足の低い座卓がいくつも並べてある。船の揺れにも耐えられるよう脚は固定されていた。
板の間に皆腰をおろして食事をするのだが、込み合う昼時はとうに過ぎて、いるのは厨に入り切れずに食堂で作業する若者だけだ。それもディアギレフとアリオンの乱闘騒ぎに巻き込まれないよう壁際に避難している。
「死ね!」「物騒だなあ、もう」
むちゃくちゃに暴れ、手当たり次第に刃物を投げつけたアリオンに男は容赦がなかった。泣いている女の子相手なのに。
何度か振り回した手足がディアギレフの身体のどこかに当たったが、大して痛みがない場所だったのだろう。避ける方が面倒だったのか、そのまま適当なところは殴られ、蹴られておいてくれる。余裕の証のようで、ますますアリオンは沸騰する。
その分攻撃が単調になり、男は容易にアリオンを床に引き倒し腕をねじり、適度に痛めつけた。
何度もアリオンは昏倒しかけるも冷静な精神状態には戻れなかった。昨日の今日で腹部の痛みも首の痛みも取れていないのに、だ。ディアギレフはそれを知った上で、嬉々として同じ場所を狙ってくる。
ことは結局、またアリオンが完全に気絶するまで終わらなかった。
「あっれー、もう落ちちゃった?」
もしまだ余力があるのならば何かしらの反応が返ってくるところであるが、彼の挑発にもアリオンは乗ってこなかった。
ぐったりと床に伸びた子どもの頬を何度か叩いてみて、ようやく終わったことをディアギレフは了解する。
弛緩した少女の身体を彼はエンジェルに預けた。白衣の天使は善きに計らってくれるだろう。彼女が医務員であるのは治癒魔術を得意としているからでもある。
手加減なしに女の子の身体をアザだらけにしたことでエンジェルは泣きそうになり、何か言いたげに彼を見ていた。だが苦言を聞く前に、ディアギレフは退散した。骨と腱は無事なのだから、それでいいではないか。
ディアギレフには、アリオンだけにかまけている暇はない。
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