少女がここに立つ理由
アリオンは麻袋に収められた大量のジャガイモの前にいた。
どうしてこんなことになったのだろう、と少女は首を傾げずにはいられない。
腹を満たしたあと、彼女はディアギレフの元に行こうとしていた。男はまだ寝ているだろうか、寝ていればいい。寝首を掻くのはやりやすい。先の失敗は、致命的だった。
そう思いながら船室に続く引き戸を開けようとして、そこでアリオンは暇か、と声をかけられたのだった。
暇じゃない、と言っても聞く耳を持ってもらえず、あれよあれよという間に、食堂に備えられたキッチンの、ジャガイモの前。船員たちはアリオンにジャガイモの皮むきを命じたのだった。新入りといえば皮むきをさせなくちゃ、という意見からだったのだが、これにはアリオンも失笑した。どれだけ能天気な集団なのだ。彼らがどう思っているのかは知らないが、少なくともアリオンはこの船の仲間になったつもりはなかった。アリオンがここにいるのはあくまでディアギレフを殺すためだけで、それ以上の目的はない。目標を達成したらすぐさま降りてやるつもりがある。
けれど奇妙なことにアリオンがそう宣言しても、誰も積極的に止めようとはしなかったが。
とまれ、アリオンははっきり仲間でないと言い出すのも面倒で、不器用に皮を剥いていた。どう思おうと、自由にすればいい。いずれ裏切られたと嘆くだろうか。それも、アリオンには関係のない話だ。
無駄なことに時間を使いたくはない。
ディアギレフのところに行きたいのだと主張して余計な手間をかけるより、ジャガイモの相手をしていたほうがまだ楽だ。
さっさと終わらせて、出て行くに限る。
しかし、どうにも上手くいかないものだな、とアリオンは手元を見つめた。
役にたてる気は端からなかったが、どうやらあまり向いていないらしい。
足元には細かく千切れた皮の欠片が散らばっている。ナイフを使うのは得意な方だと思っていた。投げて的に当てるのは簡単なのに、剥ぐとなるといやに手間がかかる。
アリオンは椅子代わりに座っていた木箱を、踵で蹴った。
一緒に作業をしている面子は、慣れているのかくるくると器用にジャガイモを丸裸にしていく。残った皮も薄いもので、アリオンの分厚いそれとは比べ物にならない。むしろ、アリオンの方は皮についている身のほうが多いかもしれなかった。
何だ、この差は。
生来、アリオンは真面目な努力家だ。体術も剣術もそうやって上達した。上手くいかないことは繰り返した。でも今はそんな悠長な時間はない。
木箱を蹴りつけるアリオンの挙動でそれなりに彼女の憤懣が伝わったのか、隣で一緒にジャガイモを剥いていたコックスが話しかけてきた。彼はアリオンが調理場で作業をしているのを発見して、手伝いに加わったのだ。アリオンに親しみを覚えるのは、彼の勝手だ。好きにさせた。
「気に食わんか?」
アリオンはちらりと男の髭面に、目線だけをくれた。
「、まあね。でも作業自体に異論はないよ。こんなこと、屋敷の中じゃやらせてもらえなかった……。へたくそだけど、たぶん、楽しかったんじゃないかな。ただね、これは今の僕がやるべきことじゃない。こんなことで、無駄に時間を浪費している暇はないんだ」
ジャガイモを握り締めるアリオンは、そこに仇がいるかのように力を籠める。指先から血の気が抜けて、薄くアリオンは笑いやる。
この色にあの男を染めてしまえたら、どんなに幸せなことだろう。
「お前はちっと冷静になったほうがいい」
「へえ……」
ゆっくりと相槌を漏らし、アリオンは丸めていた背を起こした。コックスを見つめた赤い瞳は冷たい色を灯し、輝く。
「なるほど。そういう風に、僕を懐柔するつもりか。無理には止めないけどって? 結局は、君たちもあいつの命が惜しいわけか。悪いけど、その手には乗らないよ。聞くつもりはない」
冷静でないことなど、端から分かっているのだ。誰かに指摘されずとも。
アリオンは周りにいるもの全員に聞かせるつもりで、声を張った。
「もし奴を殺されたくないのなら、君たちは僕を相応に扱うべきだ。ここでジャガイモの皮を剥かせるんじゃあなくて、縛ったり、牢に閉じ込めたりしたらいい」
にぃ、と唇を持ち上げるけれど、コックスはくすりともしなかった。
面白くなくて、アリオンはすぐにその作った表情を消す。
「人魚は海賊にとっての名誉なんだろう? 貸してくれた本に載っていた。欲しいやつはいくらでもいるんだろうな。ほったらかしにしていていいのか? 君たちの思惑は分かるよ。少しでもディアギレフに対する好印象を、僕に植えつけるつもりだ。だけど、ご愁傷様。僕に聞く耳は一切ない。もちろん僕にとってはありがたい。自由にしてくれるならいくらでも、この状況を利用させてもらうつもりだけれど」
「――……お頭は、お前に無体を強いることを望まない。もちろん、それは俺たちも同じだが」
ややもして、そんな返事がまたやってくる。神経がさっくりと逆なでられる。
「お頭、お頭お頭お頭お頭。君たちは口を開けばそればかりだな。どれだけあいつのことが好きなんだ? 随分人望があるんだな。まあ、君たち海賊風情に持ち上げられる男だ、彼も人殺し、ろくなものじゃないだろうが」
「アリオン!」
周囲が色めき立ち、何人もが木箱を蹴って立ち上がる。コックスもその一人だった。
「その暴言を撤回しろ!」「いやだね」
粗野な男どもの怒りに晒されても、アリオンは平然としたものだった。
ゆったりと周りを見回し、首を傾げる。
この場を支配しているのはまさしくアリオンで、彼らはそれ以上の感情を顕すことができなかった。しかし更に煽り立てるように、アリオンは口上する。
「君たちの怒りも最もだ。僕は、君たちの頭を侮辱した。さあどうする? どうして誰も動かない? 仲間なんだろう? 仲間だったら家族も同然だ。彼の名誉のために戦わないのか?」
アリオンの手の中で、銀のナイフが閃いた。空中に掲げられたそれ。どっ、と深く、それはアリオンが手にしていたじゃがいもに突き刺さる。誰もが息を呑んだ。小さな塊だ、突き抜けて、掌を傷つけてもおかしくない勢いだった。
「――――――少なくとも、僕は父の名誉を回復するためにここにいる」
誰も、動かなかった。
アリオンは鼻で嗤い、ナイフを引っこ抜いた。
そしてそれきり興味を失ってしまったように、皮むきの作業を再開する。緊張していた空気が、解ける。
外界からの干渉も遮断してしまっているように見えるアリオンに、それでもコックスは話しかけた。蹴っ飛ばしてしまった箱を元通りにし、腰掛ける。がたがたと、仲間たちもそれにならい、表面上は元通りの作業場だ。けれど、依然会話に注目する気配が多いのには、アリオンも気付いていた。
コックスの発する声も、宥めるようなものだ。
「……お頭を庇っているみたいだな」
「はあ? まさか」
心底嫌そうにアリオンは跳ね付けた。目にかかる前髪を顔を左右に振って払い、剣呑な瞳で睨み上げる。
「勘違いしないでくれ。僕はあんたたちが理解しがたいだけだ」
「親父の仇打ちにきたお前には、情が薄く見えるってか」
「言うなれば、そうだね。イサクだって、言っていただろう。死んだ方がいいって。あれは嘘じゃなかった。本心から、彼はそう言ったんだ」
「確かに、言った。その通りだ。言葉にうそはない」
「でも、別に、君たちはあの男を嫌っているわけでもない。頭として、慕っているようだ。いくら貴重でも、人魚は僕でなくてもいる。わざわざあいつを殺そうとしている僕を、野放しにする理由はない」
「理由は、ある」
「へえ?」
面白がるように、アリオンは先を促した。厨房の緊張が、再び上がっていくのを感じる。ぴりぴりと肌に当たる空気。
みな、何を言うつもりだ、とコックスの言動に注目している。言え、言うな、濃密な空気。
片手落ちの真実が、アリオンの周囲に視え隠れしている。けれど何を聞いたところで振り回されてやるつもりなどアリオンにはない。
コックスは一度深く息を吸い、唾液を飲み込み、アリオンと視線を合わせる。
押さえ込んだ声で、彼はただこう言った。
「それは、俺たちがお頭を愛してるからだよ。そして、お前のことも俺たちは愛してる」
アリオンは目を眇めた。落胆に、ため息が漏れる。
「――僕が人魚だからだろ? それは愛してるとはいわないよ。僕が何者でもなくても、あんたたちは同じことを言えるのか?」
「それは、」
コックスは口ごもった。そうだろう? とアリオンは重ねる。
「お前は人魚だ。それはどうしょうもない……。初めて出逢ったときから、お前は人魚だった。それを排除して、考えることはできない」
「うん、そうだろうさ」
軽い口調でアリオンは頷いた。
「それで構わない。ただ綺麗な言葉でごまかそうとするのは、実に気にくわなかった。それだけだ。さっさと作業を終わらせて出て行きたいから、これ以上話しかけないでくれ」
歯にものを着せないさっぱりとした、けれど冷たい言い方で、アリオンはそれ以上を切り捨てる。
本当に無駄な時間だったと、少女は淡々と思う。
でも、と続けようとしたコックスの言葉は、それで遮られてしまった。ずっと、と。船員たちの寂寞に、きっとアリオンは気付かない。気にもしない。言葉の端々に潜む齟齬を、見ようとも。
彼女の注意はもう、片付けてしまうべき食材にやられているのだ。
しかし、つるりとアリオンはそのじゃがいもと、ナイフを手からすべり落とした。
「うっあぁぁぁぁぁぁぁあああッ!?」
背後から巨大な肉の塊に抱きつかれ、驚いてアリオンは悲鳴をあげていた。反射的に予備のナイフを足から抜き取り、むっちりした大腿辺りを目掛けて突き刺そうとする。
コックスも周りの連中も、あわててアリオンを取り押さえにかかった。「ちょっと待て!」
「アリオン、そいつは敵じゃねェ!」
「あ゛りおん~」
涙に濡れただみ声で名前を呼ばわりながら、そいつはぎゅうぎゅうとアリオンを締め付けてきた。恐ろしい筋力だ。身体が軋む。
「っなんだこれ!? す、スカート? スカートでいいのかこれは!?」
しかしこの筋肉量はどう見ても男だ。背に当たる感触も、張りや弾力は大層なものだが脂肪の柔らかさではない。
「お姉さん? お兄さん? でもこの声はお姉さま!? 性別くらいはっきりしたらどうだ!?」
「落ちつけアリオン、おっさんだ」
「何なんだ!? どうして僕がおっさんに抱きつれなきゃならない! ――痛い!」
「ははっ」「笑うな!」
軽い恐慌状態に陥っているアリオンを宥めなくてはならなくなったせいで、思わず喉元まで出かかった言葉を何とかコックスは言わずにおくことができた。
――ずっと。
待っていたのだと。アリオンが帰ってくること。この船にまた乗ること。
しかし、その言葉を口にすることは赦されない。
誰よりも一番、おかえりと言いたかったはずの男が、何も言わずにいるのだから。
あの男が口を噤み、少女に笑みを向けるのだから。
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