かつてふたりは


「おい兄貴」


 引き戸を開け、部屋に滑り入ると、部屋の主人は硬い枕を抱えて呻いていた。イサクはため息をつき、しかし悪口を喉の奥に押し込んでおく。


「カラーグラス、フレーム歪むんじゃねェの」


「……あー、うん」


 随分長く間を開けたあとに、寄越されたのはそんなこめかみに青筋が浮く返答だった。「頭痛薬」「効かねーってわかってんだろ」


 慰みを口にしようとするディアギレフに、イサクはきっぱりと言ってやった。これでまた気のない返事が来ることだろう。


「寝不足だってのに……だるくて寝られやしない」


 ぐちぐちと文句を言う矛先は、今この場にいるイサクではなく、先ほど出ていってしまったアリオンだ。


「死ねだとか殺すだとか散々言われてたもんなー」

「今に本気であの子に殺される……」

「今すぐぽっくり逝ってもおかしくないぜ! 自分の人魚に嫌われる野郎なんか、俺産まれて初めて見るわ」


「何、お前、俺を笑いに来たの?」


 うっそりと言うディアギレフに、まさかまさかとわざとらしい仕草でイサクは手を振った。


「ランドルから信号が届いたから、起こしただけだっつの。ついでにアリオンの検査結果も出たっつってたから、もうすぐ白衣のエンジェルちゃんもこっちにくるところだと思うぜ?」「もう来てるわよ!」


 建てつけの悪い扉を筋力で勢い任せに押し開け、現れたのはむっちりとした肉体をナースウェアで包む妖艶な美女、ではなく、むっちりとした肉体をボディラインも露わな白衣で包む筋肉の塊だった。なんとスカートは膝上丈のぴちぴちサイズなのである。足を出すことをはしたないと教育を受ける女性用の衣装にそのような種類があることに、見慣れた今でもディアギレフもイサクも信じられない気持ちでいる。


「女性に重いドアを開けさせるなんてサイテーよォ!」

「むさい、むさいよエンジェルちゃーん」


 夜着を引っ被りながら、ディアギレフが情けない声を出す。なにしろ白衣のエンジェルちゃんときたら厚化粧こそ女らしいものの、筋骨隆々のおっさんなのだ。船の立派な戦闘員の一人である。名目上は医務員であるからエンジェルちゃんと呼ばせているが、本名はロンバートだ。


「んもう、お頭ともあろう男が女の子ひとりに振られたくらいで何てざまなの! つらいなら何度でもアタックすればいいじゃない。それでも振られたらこのアタシの豊乳で抱きしめて、慰めてあげるわ!」

「おっとこまえーぇ、エンジェルちゃん。でもそれって冗談? 何の冗談? 君の胸は豊かとは言わないんだよ」

「んまっ、乙女に向かってひどいこと言うわね! そんなひとにはお話だってしてあげないんだから!」

「分かった、ごめんー」


 覇気なく謝るディアギレフに白衣の天使は口元に指を添え、眼を丸くした。


「あらやぁね。こんなのお頭じゃないみたい」

「お姫さまに忘れられたのがショックなんだよなー?」


 ディアギレフのベッドの上に、イサクは思い切り尻を乗せる。スプリングが弾み、足が浮く。なぁ? と首を反らす形で振り返り訊ねると、男は眉間に皺を寄せた。同じくエンジェルも深刻さを滲ませた表情になる。


「そのことなんだけど、」


 声を低め、エンジェルがぐっとディアギレフに顔を近づけた。厚化粧のおっさんの顔のアップに耐えきれず、反射的にディアギレフが仰け反る。


「き、キスされるかと思った……」

「冗談言ってる場合じゃないわよ」


 がっちりと頬を押さえられ、エンジェルはディアギレフと視線を交じらせる。


「あのコ、やっぱりドラッグを使われてるわ」


 すぅと、ディアギレフは眼を眇めた。放っておいた枕を何の考えがあったわけでもなく腕に抱き込む。


 まったりとした台詞が唇から零れる。「――ドラッグ……?」


「そうヨ。人魚から採られた血液は身体にあるうちは何の効果も持たないけれど、一旦外気に触れてしまえば良薬ともなれば、毒ともなるわ。元の持ち主である人魚であってもそれは同じ。逆に元は自分の身体にあったものだからこそ、免疫も抗体も働かなくて人間よりひどい症状を引き起こすこともあるの」

「――だから?」


 続けて、と先を促しながら、ディアギレフ口端をしきりにさすった。彼が考えごとをしているときの癖だ。


「だからね。アリオンの精密検査をしてみたらよ、そのドラッグの陽性反応が出てるのよ。あの様子にあなたたちの話を加味する限り記憶障害もあるようだし、……何よりあのコの身体にはあり得ない量の注射痕が残ってるわ。注射を使って投薬されていたのか、血を抜かれていたのかはわからないけれど……」


 唇を撫でていたディアギレフの左人指し指がぴくりと跳ねた。問いただすかのように寄越される鋭い視線に、エンジェルは頷いた。


「ユリエラ嬢の報告の通り、あの男が裏でやっていた商売を考えると血を抜かれていたんでしょう。その一部を戻すことで、アリオンに記憶障害を起こさせていた可能性も高いわ。検査結果ではあのコにこれといった持病はないし、薬として使われていたとは思えない」

「ふぅん、」


 深く思索するように床の木目に眼を落とし、ディアギレフは沈黙した。すると、彼だけでなくイサクもエンジェルも黙る。

 天井で灯りの提灯がふらふら揺れる。

 荒い波の音が船内にも響く。


「あの男、腹一突きじゃ足りなかったかな……」


 長々とした沈黙の末、ディアギレフが呟いたのはそんなことだった。


「止めておいてよかったよ。そんなことしたらますます嫌われてたぜ?」


 茶々にディアギレフは唇を歪めた。


「殺した時点で嫌われてたんだ。だったら思いっきりいたぶってすっきりすりゃよかった」


「まあ、アタシたちの中ではアリオンが記憶をなくす予定はなかったし……」


「この男の中でももっとこう……、『助けに来たよアリオン!』『信じてた!』抱きつくアリオン、抱きしめる兄貴。まあ、兄貴は船から降りられないワケだけど! 『もう二度と離さない……』なーんて、きゃっきゃうふふの脳内もうそ、」

「どこの大衆演劇だっつの、三流過ぎて喜劇にもならんわ」


 ディアギレフに蹴飛ばされて、イサクはベッドから転げ落ちた。しかし彼の言ほどではなくてもそれなりに可愛らしい反応をしてくれると思っていただけに、ディアギレフの苛立たしさもひとしおだった。だが、諦めの気持ちがあるのも事実だ。


「恨まれてんのは、もういいや。少なくともあの子はここに来てるんだ。それだけでとりあえずは満足するよ」

「え? じゃあ記憶はどうすんの?」「いらないよ」


 さほど気負った様子もなく、あっさりとした口調でディアギレフは切り棄てる。男の酷薄さがカラーグラスに隠された目元に滲む。


「忘れる程度のものだというなら、俺はそれで構わない」

「お頭!」「ディー!」


 二人から間髪いれずに非難が飛び出す。ディアギレフはそれを顔色ひとつ変えずに流してしまう。


「だって、事実じゃないのさ」

「お頭にとってはそうかもしれないけど、アリオンにとってはとても大切なものだったはずでしょう! 取り戻すすべを考えないと!」


 エンジェルが金切り声を上げる。男声で構成されたそれは、歪ツな色を纏って軋んだ。


「でも忘れてあの子は幸せなんじゃない。仮に思い出してどうすんの? 殺そうとまで思った父親の仇が、実は契約までしようとした人間だった。愛してた父親が実は自分を道具としか見てなかったって、わかったとして途方に暮れる以外に何かすることがあるの?」


 突き放した言い方に、そうか、と唐突にふたりは理解する。


 この男は確かにアリオンに失望している。少女と同じように憎んでもいる。

 けれど同時に、見せかけている外見以上に、彼は傷ついてもいるのだろう。


 エンジェルはため息をついた。


「自覚がないから、中毒症状はそこまででないはずよ。人魚は独自の浄化作用を持っているから、すぐに薬も抜ける。それと、記憶に関してなんだけど」


 ちらりと投げかけられた眼光の鋭さに、エンジェルは納得しきれていない声ながらもわかってるわよ、と噛みついた。


「余計なことはしないわ。だけどよ、言っておくわよ。記憶ってね、忘れることはあってもなくなることはないの。脳は全部覚えてる。忘れたって本人が思っていることでも、どんな些細なことでも、全部覚えているわ。どんなタイミングで蘇るか、わかったものじゃないわよ。そのときの覚悟はあるんでしょうね!」


 エンジェルはナースウェアのポケットに手を突っ込み、てのひらサイズの小箱を取り出して振りかぶった。


「精々長生きするといいわ!」


 励ましなのか何なのか不明な言葉とともに、見事な投球フォームで小箱がディアギレフの額に直撃した。当たるとわかっているのに、ディアギレフは避けなかった。


「った!」


 彼が呻き声を上げる頃には、もうエンジェルは船室から走り去っていた。野太い泣き声が尾を引いてちいさくなっていく。


「女の子泣かしたー」「エンジェルちゃんは男の子ですー」


 ディアギレフは床に転がった小箱を取り上げた。中身は刻み煙草だ。角がひとつ凹んでいる。額を撫で、ディアギレフは煙管の火皿に刻み煙草を詰めた。マッチで火を点け、吸口を咥える。


 灯りもそうであるが、厳重に防火魔術を組み込んであるので船の上でも火を使うことに危険はない。


 ディアギレフは煙を吸い込んだ。肺まで煙が送り込まれ、やがて血に混じって全身へ回る。この煙草は、彼に特別に調合された薬だった。

 部屋には強く香を焚き染めてあるが、やはり直接摂取するものとは訳が違う。身体が軽くなっていくのを自覚し、紫煙を長々と吐き出した。


「――何かあったときは、死ぬときだし、罪悪感なんて覚える暇、俺にはないだろうけどねぇ」


 聞こえていないのは百も承知で戸口へ行き、走り去ったエンジェルに言葉をかける。


「どうせなら湿布も置いていってよエンジェルちゃーん」


 彼女が手加減なくぶつけてくれたせいで、額はかすかに腫れているようだった。とはいえ、結局この台詞も場繋ぎだ。あーぁあ、と適当な言葉を口から溢れさせながら、ディアギレフは振り返る。


「アリオンのことはこれで終わりだ。ランドルは何て言ってきてる? 何かトラブルでも? 俺たちも出よう」

「――了解、お頭」


 イサクは立ち上がる。服の埃を叩いて身体を起こしたとき、そのときにはもうディアギレフは自室から出ていった後だった。主人がいなくなった室で、彼はひっそりと息を吐く。泣きたくなってしまいそうな気持ちを、上を向くことでこらえるのだ。


 誰もだれも、この頭の決断に、こころの底から賛成し、頷けるものなどいないだろう。


 なぜなら彼らの大半は、本当を知っている。どんなに幼かった彼女が男になついていたか。どれだけ男がその子どもを慈しんだか。濃密に過ぎていったかつての日々を克明に覚えている。


 だからこそ、望まぬ別の男の手に堕ちた少女のことを、救うつもりでことに及んだ。あの日アリオンは間違いなくディアギレフの手をとって、永遠の宣言をしたのだから。


 実際を言えば、船員だれもがこの真実を少女にぶちまけてしまいたいだろう。しかしそこで満たされるのは、男でも少女でもなく彼ら自身のこころだった。


 真実はだれも救わなかった。


 彼らをいとおしく想うのならば、口をつぐんで耐えるのが最上。

 けれどそれがどうしようもなくやるせなくて腹立たしくて、イサクは気持ちが落ち着くまでずっと、なにもない天井を見つめ続けるはめになった。


 提灯がゆれて、ぼんやりと灯りがにごり、天井の木目までもが歪むのは、これはすべて波のせい。


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