人魚と違和感


 腹が満たされると、またすこしこころに余裕が生まれる。誰かが近づいてきてもアリオンは露骨に警戒心を剥き出しにはしなかった。男は、アリオンに腕を固められ、先ほどイサクと共にディアギレフの部屋にも顔を出していた髭面だった。


「……髭」

「コックスだっつの」


 ほれ、と差し出されたのは、飲み物の入った容器だった。


「さすがに酒は呑めねえだろ」

「飲んだことはないな。……ありが、とう」


 冷たい。喉を流れていったのは、真水だった。陸地でも貴重な水だ。目を見張る。


「それと、これだ」


 渡されたのは濃赤の表紙に金字が印刷された、いかにも高そうな書籍だった。古ぼけたところがまた更に値段をつり上げそうだとアリオンは思った。

 水を飲み干し、本を受け取る。


「字は読めるか?」「馬鹿にするな。僕は貴族の娘だぞ」

「大陸語でよかったか? 倭国語の方が得意なら、お頭――、か、イサクに見繕ってもらうが」

「は? 倭国語? いくら人魚だからって、そんな遠くの言葉わかるわけないだろ。僕はアルミリア生まれだぞ」


「――そうか。なら、これでいいな。読んでみな。イサクが言ってただろう。読みたけりゃ本を貸してやるってな。人魚について書いてある。お頭もこれくらいじゃ怒んねぇだろ」


「……ありがとう」


 もう一度礼を言って、アリオンは本を受け取った。潮風に曝されないところに保管されていたのだろうが、所詮は船の上、ところどころが劣化している。ひっついたページを引き剥がしながら、アリオンは目を通した。


 アリオンが本に集中しだしたのを確認して、コックスは傍を離れる。



 ――人魚。


 それは海を支配する種族の名である。


 永遠に等しい長命、人を惑わす麗しき美貌と声を持ち、何よりその歌声は人々を酔わせるほどの魔力があった。


 その姿には、大別して二種類しかいない。雌体は銀の髪に赤の瞳、雄体は黒の髪に赤の瞳を持つ。銀髪に、黒髪、瞳の赤は他の種族には見られない稀少な色であり、人魚の価値を高めている。


 その人外の麗しさもさることながら、人々を別の意味で引きつけてやまないのは彼らの肉体そのものであった。血肉は毒とも薬ともなると言われ、一説には不老不死の効能を持つと囁かれている。


 決してたどり着くことのできぬ東の最果て、幻の国に住まう希少種で、真贋構わず市場では高値で取引されていた。


 けれど古くから海を拠点とする船乗りたちには別の意味で、人魚は憧れと畏怖の象徴だった。   それを船乗りは「人魚に選ばれる」という言い方をし、人魚は「王を選ぶ」と形容するのだが――、それは一種の契約である。


 人魚は誓いを交わした人間に、海での祝福を授けることができるのだ。海の上での絶対的な安全と、生命をともにするがゆえの永遠の命。


 人魚は船で主人のためだけに歌を歌い、その守護を強める。人魚を乗せた船は嵐に沈むことはないし、凪に止まることもない。

 正式に交わされた船長と人魚の契約はそれだけの効果があった。代わりに人魚の言葉は契約者の生殺与奪を握ることになるが、それは諸刃の剣である。


 つまり海においては絶対的な力を持つ人魚と契約を交わすということは一重に海神に認められているという証左に等しく、船乗りならば誰もが一度は夢見る称号であり譽だ。


 しかし人魚においては人間と契約しなればならぬ道理はなく、すべては人魚の自由意思にかかっている。ゆえに、彼らは「王を選ぶ」と言う。海を自由にする権利を人間に与えることになるからだ。


 とはいえ、人魚の側にまったくの利益がないというわけでもない。


 人魚は海での実質的な支配者であるために、陸地に上がることに枷がある。陸地に上がる代わりに声を失い、人の脚は歩くたびに痛みを訴えることになるのだ。成長に合わせて人魚は二脚を得るが、それは陸地で生きる重さには耐えられない。


 けれど人と契約をすればその枷からは解消される。もちろんそのためだけに契約をする軽挙な人魚はいないが、海しか知らぬ人魚にとって、陸地は確かにあこがれであるのだ。




「――あれ?」


 アリオンはページをめくる手を止めた。自分の喉を撫で、力強く地面を踏みしめる自分の足を見た。確かに歌を歌うのは好きではなかったけれど喋れないわけではなかったし、足だってたまに痛むことはあるがそれは鍛錬に疲れただけで、それ以上の意味はないように思えた。


「まあ、いっか」


 アリオンはほんの少し疑問に思ったが、それだけだった。


 もしかしたら、読み間違えてしまったのかもしれない。


 薄い本だったが読み慣れていないのと、いやに堅苦しい文面に悩まされた。父に与えられていた本は、ずいぶんと読みやすい部類だったらしい。


 それがアリオンの十四歳という年齢にはそぐわない、絵本と呼ぶべき類のものであったことまでは気づかなかったが。


 気を取り直して、頭を悩ませながら先を読み進んでいく。


 そこには人魚の血の毒がもたらす症状の頁であったり、異種交配、伝説といった様々なことが記されていた。特に水を媒介とした人魚の通信方法には興味をそそられる。これは自分にもできるんだろうか?


 人魚がどれだけ貴重かは知っていたけれど、人魚に何ができるかなんてあまり考えたことはなかった。


 苦労の末に最後の頁をめくり、奥付を流し読んでアリオンは本を閉じた。


「つか、れた」


 わずかに痛むこめかみを押さえ、深く息をつく。このまま目をつむって休んでしまいたかったけれど、こんな場所では気は休まらない。きっと、この船に乗っているあいだはずっとそうなのだ。


 マストに隠れながらも、アリオンは高い場所から働く男たちの姿を眺める。


 想像していたような事態にはならなかったとはいえ、敵しかいない空間にいるのだ。

 彼らはディアギレフとは違い、アリオンにやさしかった。

 アリオンに自分の価値を認めさせて、そうして彼らはどうしようというのだろう。優しくされたところで、絆されたりなどするつもりはない。


 紙面の上だけの知識では、薄っぺらいことしかわからない。

 船に乗る人魚ができること。


 知ったからといって、アリオンがなにかができるわけでもない。

 生まれ落ちたその瞬間から持っていたものは、本人の意思で削ぎ落とせるものではないのだから。

 そのうえ今得た知識が正しいとも限らない。所詮海賊に渡された本に書いてあったことだ。


 けれどひとつだけ確かなことは、彼らがこの船の人魚として、アリオンを扱おうとしているということだ。ディアギレフのものになれということだ。


 絶対に、そんなものにはならない。


 今後彼らがどんな風に豹変し、アリオンにディアギレフとの契約を迫ったとしても、決して屈しはしない。彼を自分の王と呼ぶ気はない。


「父さま……」


 大切に守ってくれた人はもういない。この身体は自分で守らなければならない。ディアギレフなんかに渡してはやらない。


 けれどもやっぱり心細くて、銀糸を両腕で抱きしめた。心許ない軽さでもって、髪はさらさらと風に煽られていくだけだった。


 まだ、泣いたりはしないつもりなのに。


 父の死を悼んで涙を流すのは、その首級を父の墓前に捧げたあとだ。


 頬を叩いて立ち上がる。


 さあ行こう。

 立ち止まっている暇はない。


 早く本を返して、それからディアギレフを殺さなくては。

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