僕の復讐ではない殺意


 身体中に湿布を貼りつけたアリオンが目覚めたのは夜になってからで、薬効の臭いとともに全身に奔る激痛に一気に意識が覚醒した。


 まず目に付いたのは、天井から吊り下げられた提灯。船の動きに合わせて、ふらふらと揺れている。やわらかい橙色。それがぼんやりと周囲を照らしている。


 アリオンは瞬きし、左右を確認した。右手は壁、そして左手は、


「アリオン、起きたのね」


 注意深く、子どもを驚かさないように発せられた声に、うん、とアリオンは頷いた。ずっと付き添ってくれていたらしい。親切なことだ、とアリオンは微笑しようとして、痛みに顔を顰める。口端も切れていた。たぶん、顔を殴られたときのものだろう。大きく口を動かすと、連動して痛みが生じる。


「起き上がれるかしら、調子はどう? 痛みがひどいようなら魔術で治癒することもできるわ。あんまりお勧めしないけれど」


 訊ねる男は、ナースウェアを着ていた。部屋の消毒液のにおいから察するに、どうやら船内の医務室らしい。あまり大きな部屋ではない。ベッドがひとつと箪笥がひとつがぎりぎり詰め込める程度で、そうすると男一人が座れるか座れないかのスペースしか残らない。しかし医療器具があまり多くないところを見ると、別に部屋があると考えるのが妥当だった。


「大丈夫」


 支えようとしてくれるので、アリオンはその手を断った。確かに痛みはひどかったが耐えていると慣れてくるもので、自力で動けないほどではない。

 身体を起こすと、体勢が楽になるように、たくさんのクッションを背に挟んでくれる。


「ありがとう」

 

 純粋に心配してくれる声音には、自然に感謝の言葉が出た。


「それより、あなたは? 僕、あなたを知ってる。腹を殴った覚えがあるよ。ごめんなさい」

「エンジェルよ。そう呼んで頂戴、アリオン。私も大丈夫。痛みもないわ。私こそ、いきなり抱きついちゃったりしてごめんなさいね。驚いたでしょう」

「ううん、気にしてないよ。エンジェル」


 さっそく名前を呼ぶと、男は優しげな瞳で笑う。


 警戒心を抱かせない人だ、とアリオンは思った。

 抱きつかれた衝撃があったせいか、すでにどきつい女装には免疫がついていた。化粧、おしろいの匂い、香水の匂い、アリオンはエンジェルに母性を感じているのかもしれない。母は濃く化粧を重ねる人ではなかったが、甘い、匂いを発していた。


「どうして泣いてたの? 僕に抱き着いたとき」

 エンジェルは整えた眉を下げて曖昧にわらった。「……とっても悲しいことがあったのよ」

「もう大丈夫なの?」

「いいえ」


 エンジェルは寂しげに、きっぱりと首を振った。


「泣いても悲しいことが去っていくわけじゃないから。少しだけ気持ちの整理はできるかもしれないけれど……。悲しいことは、悲しいままよ」


 やわらかくカールされたまつ毛の、伏せられた目元にできた陰には憂いがわだかまっていた。


 彼女、は、椅子にきちんと座った。女らしい、斜めに脚を揃える美しい座り方だ。軽く重ねた手を膝の上に乗せ、エンジェルは身を乗り出した。


「……アリオン、もう少し、自分を労ってあげなくちゃいけないわ」


 子どものまろやかな頬は、容赦ない男のせいで腫れていた。女の子の顔なのに、と痛ましげにエンジェルは整えた眉を寄せる。そうでなくともまだ幼い子どもなのだ。たとえ当人が仕掛けたことだとしたって、手心を加えてしかるべきだろう。まして、アリオンはディアギレフにとってまったくなおざりにしていい子どもではない。


 けれどアリオンはエンジェルの心配をよそに、男だとか女だとか、身体が傷つくこと、いわんやディアギレフのことなんてまったくどうでもいいのだった。


「……そんな暇ないよ。早くあいつを殺してしまわないといけない。殺したい。そうじゃないと安心できない――――」


 いまだあの男が生きて、呼吸をして、父が過ごせなかった未来を謳歌している。その事実が堪らない。


 自覚がなかったばっかりに、アリオンは人魚としての勤めはまっとうできなかった。父の船に乗りたかったのか、と言われると考えたことはなかったのだけれど。

 だからせめて、娘としての役割は、果たしたいのだ。


「…………だけど、」


 握り締めた拳を、アリオンは呆然と見つめた。


 ディアギレフを殺すために振るったもの。

 大義名分があったはずのそれ。


「……さっきの僕は、なんだったんだろう。あれじゃただの、人殺しだ。あの男と何も変わらない、人殺しだ……」

「どうして?」


 労わる声にどうしても反抗心が抱けず、アリオンは吐露してしまった。


「さっきは、違ったんだ。父さまの敵討ちがしたくて、僕、船に乗ったはずだったんだ。なのに、さっきの僕は、父さまのことなんて、少しも考えてなかった……!」


 首を振り、腕に目を押し付けて呻く。


「あいつが、僕に背を向けたんだ。背を無けて、僕は、――僕は頭が真っ白になって、」


 そこからはもう、なし崩し。


 あのときは自分の混乱を抑えるためだけに、アリオンは元凶であるディアギレフを黙らせようとしたのだ。

 父のために振るえないのなら、この剣に一体何の意味があるだろう。


「っどうし、よ……。さいていだ……」

「――ねえ、アリオン」


 そっと、苦しむ子どもの手を、大人の無骨な両のてのひらが包んだ。


「あなたはどちらを後悔しているのかしら」 「え……?」


 思わず、アリオンは顔を上げた。

 エンジェルの言っている意味がよく分からなかった。


「どういうこと……?」

「お頭に理不尽な怒りをぶつけてしまったこと? それともお父さまのことを考えてさしあげられなかったこと?」


「どっち、て……」


 そんなの、決まっている。

 父のことを考えられなかった、自分。


 けれどすぐには言葉にならなかった。

 その質問は表裏一体だったからだ。


「アリオンはさっき、お父さまの敵討ちのためじゃなく、お頭を殺そうとしたのよね。お頭は何にも悪くないのに、アリオンは乱暴しちゃったのよね? だから、怖いのでしょう?」


 覗きこむように見上げてくる視線に、うん、うん、と幼子のように頷いた。まさに、その通りだった。


 普通だったら己の不安を解消するために誰かを殺せばいい、なんて発想には至らないだろう。短絡的に力に訴えようとした自分にアリオンはぞっとした。自分の思考はここまで変節してしまっていたのか、と。


「ねえアリオン、こういうときに、どうすればいいか分かる?」


「……わからない」


 す、とアリオンは顔を逸らした。


 うそだ、本当は、分かっていた。ただ認めたくなくて、ぐずぐずしているだけだ。エンジェルは自分をまったく見なくなってしまったアリオンに、くすりと笑みを零す。小さな手を、軽くゆすった。

「謝ればいいのよ、アリオン。そうして、もう二度と同じことを繰り返さなければいいの。そうすれば、胸のもやもやもすっきりするわ」


「謝る……」


 少女は動詞を繰り返した。さながらはじめて聞いた言葉を反復する、幼児のように。


「そうよ。ごめんなさいって」


「謝る……」


 掛けられたシーツと一緒にアリオンは膝を抱えた。丸くなって、耳を塞いだ。

(あの男に、謝罪する?)


「っ駄目だ! いや、でも――」


 謝ってしまわないと、自分がやったことの恐ろしさに押し潰されそうになる。人殺し、人殺し。未遂だったけれど、あんな自分本位な殺しをしてしまったら、一生アリオンは自分自身を赦せなかっただろう。同時に、あんな男に謝ることも赦してはならぬ出来事だった。


「あぁくそっ! もうどうすりゃ……っ」


 怖い怖い怖い。


 いつから自分は、自分の平穏のためには人殺しも辞さぬほど、欲に塗れた生き物になったのだろう。


 謝ったら息をつけるのか?

 この後ろ暗い思考に対して。


「ぁああああああ!」

「アリオン、アリオン!」


 髪を掻き毟るアリオンに、静止の手が伸びる。


「そんなに焦って考えてもいい考えは出ないわよ。そうだわ。ゆっくりお風呂にでも浸かってみたらどう?」

「お風呂……?」

「そう、怪我はお風呂に入る分に支障ないわ。一度、アリオンもすっきりしたいでしょう。行ってきたら?」


 目だけをエンジェルに向けると、彼女はもういそいそと箪笥から必需品を取り出している最中だった。返答は必要ないらしい。


「はい手拭い、はいアヒルちゃん。お風呂は広くて気持ちいいわよ。いつだったかのオー・スクエアのお頭がね、自分の人魚のために作ったのよ。それ以来オー・スクエアの船は代々この仕様」

「へ、へえ……」


 タオルと黄色いアヒルをアリオンに押し付け、エンジェルは半ば強引に風呂場へ連行する。そのあいだ、急すぎて思考が止まっていたのは事実だ。風呂に対するこの船のこだわりとやらを色々と聞いた気がしたが、右から左だ。


 風呂に着いたら着いたで、風呂の使い方の説明が待っていた。


「倭国式だから、使い方覚えてないかしら? 大陸では見ないものね」

「し――らない」


 どちらの問いに対してもアリオンはそう答える。

 問いの形式が実はおかしいことに、アリオンは気がつけなかった。一通り説明を終えると、エンジェルは『アリオン入浴中! 覗いたらお仕置き!』と雄雄しい筆致で書かれた紙を扉に貼り付け、アリオンを風呂場に放り込んだ。


 ばちこーんとひとつ、強烈なウィンク。それだけで更に脳が飽和する。


「疲れた身体にはお風呂が一番! 肩まで浸かってリフレッシュして、やわらかくなった頭で問題を解決するのよ!」


 アリオンは何一つ口を挟めないまま、呆然と立ち尽くすことになった。



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