「殺していいよ」
アリオンが目を覚ましたのは、薄暗く、狭い部屋の中だった。床からは身を跳ねさせる振動が伝わってくる。振幅が大きいため、馬車よりは快適で……むしろ心地よい。
頭上でロープに吊り下げられた丸っこい奇妙な灯りが、身体を四方にゆらゆらと揺らしながら光を周囲に放っている。ぼんやりと光がもたらす明るさと暗さにしばらく目を細めて慣らしたあと、アリオンは首を横に倒した。途端、ずきりと鈍痛が首元に奔る。
「――ッ、ぅ――」
喉で呻いて、アリオンは身体を丸めようとした。しかし間近で見るはずもない人物に気づいてしまい、アリオンは目を見開く。
「っんで、こいつが……ッ」
咄嗟にアリオンは周囲を見回した。何か、武器になるものはないかと思って。
ベッドの傍に設えられたぼろい三脚いすに座って、眠っていたのは誰であろう、アリオンの仇である男、ディアギレフその人だった。
こんなに無防備なら……、殺れる。
アリオンはそろそろと身を起こし、途中でディアギレフに蹴られた腹が痛んで舌打ちした、ベッドの脇のテーブルに立てかけてあった自身のサーベルを取ろうと手を伸ばし、ふとテーブルの上に広げられている手紙が目についた。
不用心なことにそれは畳み方が中途半端で、最後の一文がはっきりと読めた。
≪いとしいあなた ロディゴで逢えるのを楽しみにしているわ エミリーナ≫
(――けっ、)
アリオンは内心で毒づいた。
鼻につく華やかな外見にふさわしく、港に女を待たせているらしい。
けれど残念、この男はここで死ぬので、二度と会うことはないだろう。
罪悪感はかけらもなく、アリオンはゆっくりと音を立てぬよう、サーベルを抜いた。ご丁寧にも置いておいてくれるなんて、ありがたいことだ。隠さずにいるこういう間抜けなところが、命を落とす要因だ。
切っ先で男の髪を払い、頸動脈にあてがう。
この刃をどちらにでも引きさえすれば、すぐさま血を噴き出してこの男は死ぬ。
心臓が高鳴り、高揚し、アリオンはじっとりと汗を握る手に力を込めた。
今、この男の一切は自分が支配している――。
「――っうわ!」
「ッあ゛!?」
身体が前方に投げ出され、視界が一面、鮮やかな緋に染まる。脳のどこかが悲鳴を上げる。耳に障る甲高い声だ。気を取られ、手から力が抜ける瞬間を狙ってサーベルが床に落ちる。木目を転がる。がらん。
いすが倒れ、男が落ち、アリオンも落ち、硬い感触、あたたかい感触。打撲した箇所が痛い。
わけもわからず、呆然として不安な子どもの心理行動のように、手近なものを握りしめた。
どくどくとなる心臓の音を息を詰めて聞いていると、ふいに頭の上に温かいものが触れた。慰めるように、何度も往復させられる。
「――びっくりしたの?」
思いがけず身近なところから声が聞こえて、アリオンはびくりと肩を揺らして目を見張った。男を下敷きにしている。ディアギレフだ。
上半身を起こして、アリオンを膝に乗せたまま男は首を傾けた。アリオンは我に返る。
「え、あ、くそ、波が!」
反射で上ってきた言葉をそのまま吐き棄て、アリオンは男の後方に落ちたサーベルに手を伸べた。起きたなら起きたで背後からぶっすりいってやる、と思う。
「あーはいはい、あわてないの」
しかし案の定お見通しだったのかあっさりと押さえこまれてしまい、アリオンは両手足を振り回して暴れた。
「離せ、死ね、アホ! 変態!」
「ヘンタイって……」
少しばかりショックを受けた顔をディアギレフは見せたが、すぐさまその表情は消え失せて、嬉々としてアリオンをもてあそぶものに変わる。
「はは、じゃじゃ馬馴らし」
「煩え! どけ! 死ね、死ね!」
「ほんっとに語彙の貧困なおバカさんだねえ。お前の親父さんは一体どういう教育をしたのかな。――ああ、いや、今のなし。今のなしね。言っててムカついてきた」「黙れ! 父さまを馬鹿にするな!」
いくら蹴りつけてもディアギレフは大して痛がるそぶりも見せず、しかし暴れないように膝頭でアリオンの足を固定した。手はバンザイでもするような形で空中に留め置かれる。
「離せくそったれ!」
「アリオン!?」
がたりと木の打ちつけられる音が鳴った。子どもはぱっと顔を上げ、そちらを向いた。ディアギレフも音源に目をやる。そちらは立てつけの悪い木製の引き戸で、そこからは何人もの男が室内を覗いていた。少女の名を呼んだのはディアギレフよりも赤身の強い、オレンジがかった髪を後ろで束ねた青年だった。
彼は室内の男と子どもを認めると、露骨に嫌な顔をした。
「何してんだ? おっさんが無理やり女の子手篭めにしてる図だったら見たくねーんだけど」
「んなことするわけないでしょー」
呆れて喋るディアギレフが僅かに拘束を緩めた隙を、アリオンは見逃さなかった。
「どけ死ね!」
足を思いきり引き寄せて、容赦なく顔面を蹴りつける。
「げふ!」
ぱっと手を離して男が悶絶している間にアリオンは素早い動作で彼の傍から離れ、オレンジ髪の青年の背後に隠れた。
「諦めたわけじゃねぇからな……! ぜってぇすぐに殺してやる……!」
ディアギレフはベッドに突っ伏し、ちらりとアリオンに視線だけをやって首を竦めた。
「好きにしな。この首が欲しいなら、いくらでも取りに来ればいいじゃないの」
怒りで顔を真っ赤に染めるアリオンを尻目にディアギレフは呑気にあくびをひとつ、そのままもそもそと赤い羽織を身体に巻き付けて眠る体勢を取っている。今なら殺せると踏みサーベルを持ちかえたアリオンだったが、今度はその気配を察した青年に取り押さえられる。
「アリオンお腹空いてねーか? 何か食いたいものあるか? パンがいいかなー、おコメがいいかなー、アリオン、コメは食ったことあるかー?」
「うわ離せ!」
しかし彼は聞く耳を持たず、アリオンを抱えたまま廊下に出た。狭い廊下だ。所々、天井にはディアギレフの部屋にあったものと同じ、丸い灯りが取り付けられている。進んだ先の階段の方から日の光が洩れていていた。
「アリオン、お前、何が好き? 何でも言いな。出してやるから。そーだ、俺、イサクっての。よろしくなー」
「触んな!」
無理やり身体を捻り、アリオンはイサクから距離を取る。
「……っなんで、あんたたちそんななんだ! 僕はあいつを殺すって言ってんだぞ!」
彼はアリオンの言葉に対して、ほわりと目元を緩めただけだった。
「んー? だから、それはディーも言ってたけど、好きにしたらいいんでないの?」
「はあ!?」
鋭い声が、喉から漏れた。
「意味がわからない! あんたたちの頭だろ!? もしかして、僕のこと侮ってんのか? 殺せるわけないとでも思ってる!?」
「どっちでもいいとは思ってるかなぁ」
何か言いたそうにしている周囲のものたちを目で制止し、イサクはわめくアリオンを宥めるように笑みを見せた。ディアギレフのように嫌みったらしいものではなく、純粋に好意から形成されたものだ。
「アリオンがディーを憎んだままなら、あいつを殺してもいいんじゃね? むしろ、殺してやった方がディーのため」
はぁ? とアリオンは再度思い切り首を傾け、理解できないという不快感を全身で示した。素直に感情を表現する少女に、イサクは苦笑する。
「ディーにとって、人魚ってのはそういうものなんだよ」
とたんにアリオンは顔色を変えた。憎々しげに顔をゆがめ、足元に唾棄する。
「また人魚か! 僕がそんなものに産まれたせいで父さまはディアギレフに殺された! どうせ貴様らも見てたんだろう!? 人を殺さなきゃならないほど、人魚ってのはいいものかよ!」
「……お前は人魚の価値を知らなさすぎる。望むなら教えてあげるし、船にある本も好きなだけ読ませてあげる」
「それはどうも! だけどあんたたちに教わることは何もないね、僕は十分父さまに教わってる! そしてそれが本当だったって、思い知ったとこだ!」
アリオンは踵を返し、階段を駆けのぼった。
身勝手な言い分ほど、イラつくものはない。
あなたはとても貴重です。だからあなたの父親を殺して、手にいれようと思いました。
彼らの意見はそういうことだ。そしてそんなもののために、アリオンの父は死んだのだ。人魚であることをこれほど後悔した日もない。
かつて、その生まれに誇りを抱いた。
彼のために、生きるのだと誓った。
それなのに。
手をかけた扉は押しても引いても開かなかった。またたてつきが悪い。怒りに任せて蹴りつけると後ろで「横ー」と間の抜けた声が言った。
「どうも!」
甲板に駆け出ると、明るさに目が眩んだ。ぐらつく足元。けれどそれは、めまいのためだけではない。
見渡すかぎりの青い海。どこにも陸地の姿はなく、出港して時間が経っていることを知った。少し湿気を含んだ塩の匂いが鼻をくすぐる。頭上を仰げば抜けるような空のした、いっぱいに風を受けて膨らむ黒い帆があった。
海賊船、オー・スクエア。その意はOsearn Order――海洋の秩序。
何が秩序だ、とアリオンなどは皮肉るしかない。彼らこそが海の平穏を乱す、海賊のくせをして。けれどそんな思考も一瞬で霧散するくらい、海の広さは圧巻だった。
進路を巡って叫び交わす声がする。活気に満ちた、男たちの野太い声だ。
潮風を胸いっぱいに吸い込んで、アリオンは広がる光景にしばし圧倒されて立ち竦んだ。
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