それはあまりに残酷な
「父の仇、」
低く唸ったアリオンにディアギレフは驚くこともなく、薄く一笑するだけだった。命を狙われていることに慣れているのか、その動作には一切の気負いがない。
彼の首をめがけて、アリオンはサーベルを横に薙いだ。
勢いに乗じてハンチング帽が飛ばされる。銀の、人魚にしか持ちえない色の髪が、空に舞う。
睨みつけた男と、目があった。恐らく瞳が紅いことだって確認されただろう。こうなれば極め付きだ。
だがもういい。バレてしまったところでいい。
この男を殺してしまうことができたならば、とアリオンは胸中で叫んだ。今度こそ驚いたのか、男が目を見開いたのが痛快だった。
けれど一撃目は辛くも逃れられた。
男は床を蹴って後方へ飛びすさり、アリオンが斬り裂けたのは彼の前髪のほんの一部だけだった。赤銅を帯びた金色がひらりと風に流される。
「驚いたか? 貴様が欲しがっていたものだろう!」
流れ落ちた髪を掻き上げ、アリオンを凄絶に嗤った。呆けていた男はすぐに真顔を取り戻し、すこしだけ口端を吊った。
「死ね! ディアギレフ!」
「はは、」
今度こそ、ディアギレフは楽しげに声を上げ、振り上げられたサーベルを煙管の留金で受け止めた。
「さっすが、おてんば娘だねぇアリオン。自ら逃げてくるなんざ、手間が省けて幸いだ」
「名乗った、覚えはないぞ!」
ぎちぎちとかみ合わない鉄と金が鳴る。
「お前さんを、俺が知らないわけないでしょ?」
「――ああそうだよな、そりゃそうだよな!」
人魚のアリオンを奪うために、男は彼女の父を殺した。そうであるならば、名前を知っていてもおかしくはない。
けれどその事実をこうも軽々と言えるものなのだと、愕然として唇を震わせた。
男の非情さを目の当たりにして、アリオンは言葉もなかった。しかし、心はもう変える余地もなかった。
「殺してやる……!」
「威勢ばっかりいいねぇ、アリオン」
「呼ぶな!」
アリオンは吐き棄てて、腰のベルトからナイフを引き抜いた。
一本、二本と続けざまに投げつけ、ディアギレフがそちらに気を取られる一瞬の隙にしゃがみ込んで膝を掬う。男は地面に片手をつき、足を引いて飛びすさる。その間に距離を詰めて、アリオンは今度、上段から切りこんだ。
ディアギレフはにっこり、アリオンに邪気のない笑顔を向けた。それに少女は僅か、視線を取られる。
「腹、お留守だぜ? 隙だらけー」
がつりと強かに鳩尾を突かれたのは、この台詞よりも早い。甲板を滑る細い身体をディアギレフは眺め、のんびりと吸口を咥えた。
対してアリオンは腹を押さえ、顔を真っ青にさせて奥歯を噛み締めていた。ほとんど何も胃に入っていなかったおかげで、吐くのは何とか免れた。殴られたのは腹であるのに脳の芯がぐらぐらと揺れる。意識が吹っ飛びそうなるのをどうにかこらえ、落としたサーベルを拾おうとするが、痺れた手は痙攣するばかりで握力を失っていた。
ディアギレフは子どものような軽やかな足取りで近づいてくると、すとんと蹲るアリオンの前に跪いた。
「まだ起きてるなんて、偉いねえ」
その言葉にはまるで悪意なく、本当にただ幼い子どもを褒めるような口調だった。しかし、アリオンは馬鹿にされた、と感じた。
涙の膜が張る瞳で睨み、腕を振り上げる。少女の手がディアギレフの首筋を殴打する前に、彼は攻撃をおざなりに手首で弾いた。続いてアリオンは僅かに身体の角度を変えて足を引き寄せたが、これも足刀が男の腹に入る前に気づかれて押さえられてしまう。片手、で、両足が。
クソ、と何度目かになる悪態をアリオンは洩らした。そして怒鳴った。
屈辱と失望にまみれながら。
「殺せ! 殺せばいいだろう……! お前が殺した僕の父のように、僕を殺してみせろ……ッ!」
泣くことだけはすまいと、それがせめてもの矜持だと、アリオンはこらえた。
ここにきて、仇の顔を間近で見て、初めて、こうして、実感が湧いた。
父はこの男に殺されたのだと。
紛れもなく、父はもう死んでしまったのだと、そう、わかった。
「殺せ……ッ!」
「何で俺がお前さんを殺さなきゃなんないの」
「だったら自分で死んでやる! お前のものになるくらいなら、死んだ方がいくらかマシだ……!」
啖呵を切った勢いそのまま、アリオンは舌を噛み切ろうとした。だがそれよりも早く、ディアギレフが少女の口に指を突っ込んでいた。奥舌を押さえられ、胃液がせり上がってくる。自殺を阻まれたことを知り、アリオンは容赦なく男の舌に歯を立てた。
「いって!」
男は短く悲鳴を洩らし、更に深く指を押し込む。咽にたらり、流れてきたのは、おそらく、血だった。
「まったく、お前さんに死なれたら困るんだよ」
アリオンはディアギレフの手首を掴み、口から引き抜こうとするが、力の差は歴然でびくともしない。逆に押さえられそうになるのを捕えられる寸前で打ち払い、自由になった足を使ってディアギレフに向かって全体重を使い、倒れた。弾みで彼の手から煙管が離れる。
指を突っ込まれたままでえづきつつも、アリオンは男の首に手を宛がい、頚椎の位置で、押しこむ。
だったらお前が死ねばいいと何度も、何度もそう思った。
そうすればたとえ、そうこの船の上、永遠に鎖で繋がれようとももう、構わない。
「あーぁあ、アリオン。せっかくの可愛い顔が台無し」
若干咳き込みながらも、今だ余裕の仮面を外すことなく、ディアギレフはずれた
「お前の握力ならその程度だって。本気で殺したいならァ」
喜色の、漂う、けれど、残酷、な、目。狂気を内包した、その、青い瞳。
「――こうしないと」
すっと、男の腕が持ち上がった。掠めるばかりに首筋へと手刀があてがわれたのは一瞬だった。そのあいだに、アリオンの思考は押し流されて、ぷっつりと切れた。
「……あーあーあー、何なの、この年になったら少しはおしとやかになるもんなんじゃないのー? 何でじゃじゃ馬に拍車がかかってるんですかねーえ?」
だらりと自分の胸元に突っ伏して動かない、意識皆無の身体の首根っこを掴んで持ち上げながら、ディアギレフは大仰に嘆いた。
「しかもなんか男言葉だし、口悪いし、」
気絶した少女の疲労が色濃い顔を眺めて、ぼそりと零す。
「――殺すなんて物騒なこというし、ね」
男は立ち上がってアリオンを肩に担ぎあげた。このときにはかすかに覗かせた寂寞を一掃させていて、普段通りのうすら寒さを覚える男である。
甲板に転がっていた煙管を拾い、吸口を袖で清めて咥える。もちろん火などとっくに消えて、味も何もない代物だが。
「体幹はいいんだけどねぇ、度胸も十分あるみたいだし。でもいかんせん、実戦経験が少ないね」
ふんふんと鼻歌を歌って船室に引っ込もうとするディアギレフに、船員から控えめな声が掛かった。
「何かな、コックス」
髭面である。甲板にはもちろん多くの船員たちがいて、突如始まった船長と、人魚の攻防に動揺が隠せずにいた。髭面――コックスは他の船員たちに混じって、男と子どもの様子を見ていたのだ。コックスは頭が抱えた銀髪の子どもを眺め、恐るおそる、洩らした。
「アリオンって、
「おー、間違いなく、俺たちの船の人魚姫だよ」
「何でそんなにあんたを憎んじゃってるんです」
へらりとディアギレフは表情を笑みの形に崩した。
「俺がこの子の
「そりゃ……!」
反駁しかかるのを遮って、変わらずディアギレフはへらへらとした笑いを顔に張り付けていた。
「まあ、しょーがない。俺にこの子が必要なのは本当だったんだし。みょーにしあわせに育ったみたいでびっくりだけどさーあ」
だからねぇ、男の声が微かに低くなり、威圧を含んだものになった。
「余計なことを吹き込んだら、ただじゃあおかないよ?」
船の主人は乗組員たちの返答を聞かなかった。寝オチしたアリオンを連れ、船室の奥へと消えていった。
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