第5話 膝と枕とアルバイト

 嫌な夢を見ていた気がする。

 内容は覚えていないけれど、とても嫌な夢を見ていた。

 意識が徐々に浮上する。

 重い瞼を頑張って開くと、目の前に美少女がいた。

 赤羽紡の好きな人が、そこにいた。

 うん、これは夢だな。そう思って瞳を閉じる。

 いや夢じゃない。すぐに分かった。こんな甘い香り知らない。

 彼女は美しいだけじゃなく香りも良いのかと寝起きの頭で考える。

「紡、起きた?」

「うん」

 バレている。当たり前だ。目覚めた瞬間にばっちり彼女と目が合っているのだから。

 誤魔化しようがない。

 現実を受け入れよう。

 紡はみくに膝枕されている。

 後頭部の生温かくて柔らかい太ももの感触がとても心地よい。

「嫌な夢を見たの?」

「どうして?」

「紡がすごくうなされてたから――」

 やはり嫌な夢を見ていたのか。

 しかしどうしてみくが膝枕をしてくれているのか訳が分からない。嬉しすぎて理性が爆発しそうである。

「――えーちゃんが膝枕してあげたら良くなりますよって教えてくれて」

「えーちゃんなにしてくれてんのさ!?!?」

≪こういう時に言うべき言葉があるでしょう紡様≫

「ありがとうございますっ!!」

 紡の力強い一言が響き渡る。




「それじゃあ僕はバイトに行かないといけないから」

「うん」

「基本的にえーちゃんに聞けば大体のことは解決するから」

≪任せてください≫

「遅くても夕方までには帰るからね」

「紡、気を付けてね」

「ありがとう。じゃ、行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 仕事着を詰め込んだ鞄を持って紡が家を出る。

 この広い部屋にみく一人きりだ。

≪静かになりましたね≫

 いや、みくとえーちゃんの二人きりか。

≪みく様≫

「なに?」

≪ありがとうございます≫

「どうして?」

≪正直、私はもう二度と紡様と会うことはないだろうと思って先日見送りました≫

 えーちゃんの言っている意味が分からずにみくは首を傾げる。

≪みく様が紡様を連れ帰ってくださった≫

「違うよ、紡が私をここに連れてきたの」

≪いいえ、みく様。間違ってはいません。両親のもとへと向かう紡様を引き留めたのは間違いなくみく様です。私の言葉は紡様には届きませんでしたので≫

 ハウスAIは人工知能らしからぬ温かな声色でこう言葉を紡いだ。

 だから、ありがとうで合っていますよ。と。




 紡のアルバイトは外殻のメンテナンス作業だ。

 もう長いことこのバイトを続けているベテランである。

 外殻とは新東京の都市部を守る断層シェルターのことで、このシェルターが外の世界の有害な物質とそこに住む化物の侵入を阻み。紡らの住む都市を守ってくれているのだ。

 この都市のエネルギーの大部分がこの外殻の維持に費やされており、外殻が破られればこの都市は壊滅的な被害を被るだろう。

 だからこそ日々のメンテナンスが重要で、アルバイトとはいえ責任のある仕事なのだ。

 最初は覚えることが多くて失敗だらけの毎日だった。辞めようと思った数も数えきれない。

 それでも続けられたのは外殻というものがどれほど大事で、外殻の存在がどれだけの人を守っているかをよく知っているからだ。

 仕事も徐々に覚え、ある程度の信頼を勝ち取った紡は今やセキュリティーカードを預けられるまでになっている。

 そのセキュリティーカードを使って外殻メンテナンス用のビルに入る。昨日みくと逃げ込んだビルもそのうちの一つだ。

 薄暗い廊下を抜け幾つかの分かれ道を進んだ先の突き当り、その扉を開きながら紡は元気な声で挨拶をした。

「おはようございます」

「おー、赤羽くん。久しぶりじゃないか」

 挨拶に応えたのは休憩室の椅子に座ってくつろぐツナギを着た女性だ。

「休みが多くてすみませんでした」

「いやいや君も色々とあったんだろう? また来てくれただけで私は嬉しいよ」

 紡を温かく迎え入れてくれた女性は先輩の雨宮という。

「そう言ってもらえるとありがたいです」

 軽くお辞儀をしてから紡は積まれたダンボールを躱しつつ奥の更衣室へと向かう。

 この部屋は更衣室兼休憩室に使っている部屋で、もともとは倉庫だった。いや今でも半分倉庫として使っている為にダンボールが大量に積まれているのだが。

 雨宮は紡がこのバイトを始めたときからお世話になっている先輩の一人で、紡と同じアルバイトから始めて今では正社員として働いている。

 失敗ばかりだった頃から色々教えてもらった相手なので今でも頭が上がらない。

 雨宮曰く、赤羽くんは教えることをよく吸収して覚えた。今では立派な戦力だし、君が望むなら正社員としての口利きもするよ。とのことだ。

 夢破れて退学までしたのだから、これからも生きていくのならそれも良いのかもしれない。

 この仕事は嫌いじゃない。むしろ好きなくらいだ。

 前向きに検討しよう。着替えながら紡はそんなことを考えていた。

 彼が着替えたのは作業用のツナギである。

 外殻のメンテナンスはシステム的な部分と機械的な部分に分かれる。雨宮と紡の担当する作業はその機械的な部分がメインで、二人は一組のペアとしていつも作業している。

 紡が色々な事情で休んでいた期間は彼女一人で作業していただろうことが分かる為に紡も肩身が狭い。

 人員を投入する余裕が会社にない訳ではないのだが、あまり人気な職ではないのに技術と経験が必要なうえ、外殻という都市の命に直結する仕事の為に素性の定かでない人物は採用出来ないという事情も相まって常に人手不足なのである。

 紡を積極的に正社員として雇用しようとする雨宮の意図にはそういう背景もあった。

 着替え終わった紡は私服と荷物をロッカーに詰め込み、再びダンボールの山をかき分けて休憩室に戻る。

「今日はどこを見るんですか?」

「冷却装置の方だな。監視用の温度計が低めに出ているらしい。温度計の劣化なら交換すれば終わりだが、本当に温度が低いなら少し面倒なことになるな」

「なるほど、とりあえず新品の温度計準備しますね」

「頼む」

 雨宮は大変仕事ができる人なのだが、如何せん片付けが致命的に苦手という弱点がある。

 その弱点を今までは紡が補っていた訳なのだが、彼が休んでいた為に注文した資材が休憩室を圧迫するレベルで積み上げられている。

 このダンボールの山の正体はそれだ。

 また時間の余裕を見つけて紡が整理しなければならない。

 とりあえずは温度計だ。

 どこにある事やら。この様子だと雨宮もどこら辺に積んだか覚えてはいないだろう。

 今頃みくはどうしてるのか。えーちゃんと仲良くやってるといいな。そんなことを考えながら紡はダンボールに手を掛けた。

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