第2話 死ぬ前にHDDは壊しておきたい男心

 身辺整理という理由で片付けや掃除を徹底していて心の底から良かったと紡は思っていた。

 自分が死ぬ前にエロ関係のデータは全て消し去っておきたい。というのは大半の男性が同意してくれるだろう行為だと思われる。

 紡もその例に漏れず、自分の人生を終えるにあたりそういったものは全て処分していた。

 だから見られて困る物は家にないし、準備なく女性を部屋にあげても慌てることはない。

 赤羽紡は高級マンションの十階に住んでいる。それも角部屋だ。

 これは父親の稼ぎが良いからだが、今となっては無駄に広いだけである。

「凄く広いお家に住んでるんだね」

「広くても掃除に困るだけだよ」

 少し嫌味に聞こえてしまったかもしれない。

 しかし実際に掃除は大変であった。

「好きにくつろいで」

「うん」

 遠慮なくみくはリビングのソファに座る。

 彼女の軽いだろう体重を受けてソファは深く沈み込み、彼女の体を支えるように形を変えた。

「なにこれ、凄い包んでくる感じがする」

「……? 形状記憶型のソファだけど、そんな珍しい物でもないよ?」

「形状記憶? なにそれ」

「座った人ごとに形を変えてそのデータを記録するソファだよ。体調や姿勢に合わせてソファの方が体に負担がかからないように形を変えてくれるやつ。確かにちょっと前までは高価だったけど、今は結構値段もお手頃になってかなり普及してある筈だけど、座ったことない?」

「ない。……このソファに座っているとダメになる気がする」

 確かに座り心地が良すぎて寝落ちしてしまうことも少なくないが、その場合は睡眠を感知してソファがベッドの形状になってくれるので問題はない。これを人間をダメにすると評するのならば、なるほど確かに彼女の言は的を射ているかもしれない。

「何か飲むかい?」

「紡と同じのがいい」

「なるほど、なら紅茶かな。えーちゃん、ピーチティー二人分お願い。蒸らし時間は四分で」

≪かしこまりました≫

「!?!?!?」

 紡の言葉に反応した女性の声に驚いたのかみくが全身を硬直させる。

 まるで猫のようだ。

「なにいまの声っ!!」

「なにってハウスAIだけど」

「ハウスAI!?」

「知らない? 家に搭載された人工知能型のお世話システムだよ。これも珍しいものではないと思うけど……」

 言ってから紡は気付く。

 彼女が本当にスラム街の出身であれば知らないのも無理はない。都市部と違いスラム街は数十年から百年単位で技術が遅れているらしい。

 もしも彼女がスラム街から誘拐されてここに連れてこられたならば、知っていて当たり前の態度は不誠実だと言えるだろう。

 知る機会がなかったのならば知らないのは当然だ。彼女の責任ではない。

 一つ一つ丁寧に教えるのが紡のすべきことだろう。

「えーちゃん自己紹介を」

≪赤羽家を陰から支える縁の下の力持ち、ハウスAIのえーちゃんです。えーあいだからえーちゃんと捻りのない名前を意外と気にっています。気軽にえーちゃんと及びください≫

「えーちゃん、よろしく。私はみく」

≪みく様ですか。こちらこそよろしくお願いします≫

「ちょっと自室で着替えてくるよ」

 そう言い残して紡は自分の部屋に戻る。

 中は絶対にみくには見せられない。

 暫くしてスウェットにTシャツという非常にラフな格好で紡が戻って来る。

 広いリビングにはソファに座りながら目を丸くしてテーブルを凝視するみくの姿があった。

「どうしたの?」

「飲み物が急に出てきた」

「ああ、それね」

 スラム街では見慣れないのだろう。もちろん都市部では見慣れた光景だ。

「えーちゃんが淹れてくれた紅茶だよ。テーブルの下から出てくるようになってる」

≪紅茶と一緒にお茶菓子もいかがですか?≫

「うん。よろしく頼むよ」

 紡はみくの対面にあるソファに座り、カップを手に取って香りを楽しむ。

「いい香りだ。やっぱりこの茶葉は四分の蒸らし時間が一番香るね」

 少し口に含んで香りと味をゆっくりと嗜む。

「渋みもないね。良い出来だ」

≪恐れ入ります≫

 美味しそうに紅茶を飲む紡を見て恐る恐るみくも口に持っていく。

「あちちっ」

 猫舌なのか少し手間取りながらも不慣れな様子で飲む姿はとても可愛らしい。

「美味しい……」

 小さく呟いたその声色は出会ってから一番柔らかく穏やかな声で、彼女が心の底から美味しいと感じたようで嬉しかった。

 同時に彼女が先程まで気を張っていたのと気付かされる。

 当たり前だ。

 テロリストに誘拐されて、見知らぬ男に助けられ。能天気にいられる筈がない。

「このマンションは値段が高いだけあってセキュリティもとても高いんだ。それにえーちゃんもいるしね。安心していいよ」

「でもいいの?」

「いいってなにが?」

「紡のお父さんとかお母さんとか、いるんじゃないの?」

「いないよ」

 紅茶をもう一度口に含み、舌を潤してから。一呼吸置いて紡はゆっくりとした口調で続ける。

「いないんだ。母親は僕が幼い頃に病気でね。父親はつい最近。親戚もいないから僕は天涯孤独の身だよ」

「そう、なんだ……。それは寂しいね」

 寂しい。のだろうか。正直なところ、複雑な思いが言語化出来ず。自分でもどう思っているのか分かっていない。

 ただひとつ明確に言える事は。

 死のうと思った理由の一つではあるということだけだ。

「そうかな、そうかも。寂しいのかもしれない。こんなに広くて豪華な家で一人だなんてね」

≪一人ではありませんよ≫

「ごめん、えーちゃんがいたね」

≪みく様もいます≫

「紡は私がいると寂しくないの?」

 正直なところは分からない。

 この心にぽっかり空いた穴を彼女が埋めてくれるかは紡には分からない。

 けれど、死のうと思った理由の一つが天涯孤独の身になったことだとしたら。

 生きようと思った理由は間違いなく目の前にいる彼女だ。

 紡はみくを必要としている。

 それだけは自信を持って言える。

 だから。

「うん。寂しくないよ。みくがいてくれて嬉しい」

「良かった。私が紡の役に立てて」

 みくは笑う。

 お淑やかに。けれど満面の笑みで。

 花が咲いたのかと思った。

 それほどまでに美しい笑顔だった。

 心臓がうるさいくらい高鳴る。

 その音がみくに聞こえないか、それだけが心配だった。




 灰蜘蛛はいぐもは焦っていた。

「だから目を離すなって言っただろうがっ!!」

 怒鳴りながら目の前の男を蹴り飛ばす。

 蹴り飛ばされた男は既に顔面の原型が分からない程に殴られている。

 骨折も一桁では足りないだろう。

 見せしめでも懲罰でもなく。ただ灰蜘蛛が怒りを発散する為だけに暴力を振るっていた。

「おい答えろ」

 既に口の中が傷だらけでまともに喋る事さえ難しいことを理解して尚、それでも言う。

「なんとか言えよっ!!」

 寝そべった男の腹部に蹴りを入れる。

 くの字に折れ曲がった男は血反吐を吐き出して、暫くして動かなくなった。

「死んだか?」

「そのようですね」

 その光景を黙って見守っていた男が相槌を打つ。

「ふざけやがって、俺が長年準備してきたものを邪魔されたんじゃ怒りが収まらねぇや」

 人気のない薄暗い路地裏で、灰蜘蛛の声が響く。

「どうします。あの女は優先順位は低い方ですけど」

「俺の勘だとあの女は何かやべぇ感じがするんだが。確かに今回の計画から考えれば優先順位は低い。仕方ねぇ、女は放っておいて例の件を進めるぞ」


「例の件って何? 詳しく教えてくんない?」


 突如頭上から声がした。

 それに反応して灰蜘蛛ともう一人の男が上を見る。

 そこには建物の階段の手摺に腰かけた男の姿があった。

 見覚えがある。

 同時に戦慄が奔った。

ふくろう!!」

「御意!!」

 灰蜘蛛が叫び、阿吽の呼吸で梟と呼ばれた男が動く。

 意思疎通は完璧であった。

 即ち。この男には絶対に勝てない。梟を犠牲に灰蜘蛛だけでも逃げ延びるべきだと。

 梟が両手を掲げ、同時に突風が吹く。すると階段は一瞬で細切れに切り裂かれた。

 しかしその場所に男の姿はもうない。

「いきなり攻撃とはご挨拶だな」

 その声は梟の背後からであった。

「っ!?」

 振り向くと同時に攻撃を仕掛けようとするが、梟の全身に衝撃が奔り、意識を手放すほうが早かった。

「この、怪物め……っ」

 苦し紛れにそれだけ言うと梟は倒れる。

 そしてその場には灰蜘蛛の姿はもうない。

「見事な囮だこと」

 呆れたように呟き、男はその場を立ち去る。

 灰蜘蛛が何を計画しているのか、確かめる必要がある。

「面倒な仕事を引き受けちまったな」

 愚痴るようにそう吐き捨てた。

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