第14話 この世の肥溜めみたいな場所 その3

「こやつの事か?」

 エニスクの爪には男が引っ掻かっていて、されるがまま宙吊りになっていた。かなり老け込んでいる。刈り込んだ白髪をして、顔に深い皺を刻んでいた。高そうな燕尾服を纏っているが、所々が裂けてほつれている。


 真理は嬉しそうに笑顔を強めると、出鱈目に腕を振った。

「よ~、ルガマーテお久しぶり~。どうしてた?」

 執事は堪え切れない嫌悪を、わずかに顔色に滲ませた。それでも恭しさを取り繕うと、吊られたまま真理に会釈した。

「お久しゅうございます。真理様」

 エニスクは真理と執事が、見知った中であることを察すると、僅かに笑いをこぼした。


「ははぁ。さてはこやつに用があってゲートを繋げたか。そうかそうか……こやつは還してやってもよいぞ。じゃが未払いの給料と引き換え――と言うことでどうじゃ?」

「じゃあナシでサヨナラ!」

 真理は即答すると、流し台からエターナルノッカーを抜こうとした。

 すかさず定則がその頭を手の平ではたき、顔を真っ赤にして吠えた。

「俺ンとこホームステイしに来た時みたいにもうちょっと粘れ! ほっといちゃ駄目だろ!」


 エニスクも会話の通じないボーダーランド人を相手にするため、縋る思いで脅しただけなのだろう。慌てて付け足した。

「儂はごうつくに、契約以上の報酬を得ようとは思っておらんぞ。当たり前のものを貰いたいだけなのじゃ。それに執事に乱暴を一切働いておらん。その……お主が約束を違わなければの話じゃが……」

「その報酬が払えないんだから仕方ないじゃぁん。じゃあルガマーテ、御達者でぇ~」

 真理はケロッとして、エターナルノッカーに手を伸ばした。

 エニスクは床にルガマーテを放り出し、杖を抜かせまいと爪を振り回して牽制した。


「待てぇ! もう少し努力なりなんなりしたらどうじゃ! 人の命がかかっておるんじゃぞ!」

 真理は爪に切り裂かれる、すんでのところで身をかわした。

「だからその報酬が払えないんだから、仕方ないって言ってるでしょ。出来ないものは出来ないの! 頭イカレてんのかお前ェ!」

「貴様にだけはその台詞を言われたくはないわこのボケがァ! おい話の分かる方! 儂がこのガンギマリをズタズタにする前に、杖から離れさせろ!」

 定則は急いで真理に飛びつくと、後ろから羽交い絞めにして流しから遠ざけた。


 ルガマーテは床に放られた姿勢のまま、そのやり取りを静観していた。

 定則が真理の口を抑え込んで喋れないようにし、エニスクが信じられない様に腕を戦慄かせている様子を目にして、ふっと笑みをこぼす。そして埃を払って立ち上がると、上品な動作で二人の間に割って入った。

「良いのです。私はボーダーランド王家に仕える者。真理様の望みを全うできるなら、恐悦至極で御座います。喜んで生贄となり、エニスク様にお仕えしましょう。むしろその方が私としても喜ばしいです。私は私の血肉が給金となり、娘にさえ届いていればそれでいいのです」


 思わぬ方向に話しが転び、その場の人間が一瞬硬直した。

 エニスクと定則はお互いの出方を窺うように、視線を投げたり爪で空気を切ったりする。やがて定則は真理の反応を知るために、口を抑える手をどかした。

「うん。お前の為に私が苦労するなんてありえないから、それでいいよ」

 真理は曇りない笑顔のまま、はっきり言った。定則は真理に理解させるように囁く。

「お前いいのか? 執事になれる人って、特別な資格がいるんだろ? おまけに執事さんの給料は払っている訳だから、エニスクさんに人材を貸すことになるんだぞ」

「メンドクサイからもうそれでいいよ。それより定則、新しい執事探しに行こうよ」

 真理は定則の拘束から逃れると、話は終わったと言わんばかりにルガマーテを流し台へと押していった。


 エニスクが何かに気付いて、床を叩いた。

「ちょと待て……娘と申したか? お主娘持ちか? おいガンギマリ。お主こやつの娘にちゃんと給料を払っておるのか……?」

「ん? 知らないよそんなもん」

 エニスクが力任せに床を殴りつけ、台所の床が砕け散った。


「もう給料なんていらんわい! とっとと娘の所へいったれぇ!」

 エニスクは流し台に押しやられて来たルガマーテを、真理の方に押し戻す。だが真理はその場で踏ん張り、無理やり流し台に突っ込もうとした。

「ククルーテなら大丈夫でしょ。色んな次元の偉い人とコネあるんだし、そいつら私と違ってマジモンの権力者とかだから。元気でやってるよ。心配しなくていいってことでバイバイ」

「いいわけあるかぁ! もういいわ! 何もいらん! これ以上儂の精神を犯すでないわ! おい話の分かる方! 何をしてるか! このガンギマリのドタマカチ割ったれェ!」


 エニスクは定則に向かって叫ぶが、定則はと言うと何かを考えこんでいた。代わりにイエナが花瓶をむんずと掴んで、真理に殴り掛かろうとする。

 その直前。定則はおもむろに顔を上げて、天啓を得たかのような顔を見せた。

「それ……イケるんじゃないですか?」

 イエナが待てをかけられたように、振りかぶったところで動きを止めた。

「そうじゃ! このクソボケ儂が殺す前にさっさと黙らせろォ! 儂もう田舎に帰る! 田舎に帰って母者の畑を継ぐ! 笑われても構わん! 土下座だってする! 都会は父上が言ってた通り怖い所じゃった!」


「いやそうじゃなくて、その……ククルーテって執事の娘さん。偉い人と知り合いなのか?」

 定則がイエナを下がらせて、真理の腕を引いた。

「うん。勇者とか、賢者とか、王家とか、いっぱい集まっていつもお話してるよ」

「じゃあ……エニスクさんをその人らに紹介するってのは……報酬としてどうでしょうか? その……雇ってもらえる確約はありませんけど……このガンギマリに耐えたエニスクさんなら、引く手数多じゃないでしょうか?」

 ルガマーテは複雑そうに顎を引く。だがすぐに微笑みを取り繕うと、定則たちに深く会釈をした。


「真理様が望むなら、その通りに致しましょう」

 定則はルガマーテが笑顔を取り繕ったのが気掛かりだった。慌てて彼にフォローした。

「その……真理が何かやらかそうとしたら、俺が全力で止めますから。紹介するのは真理じゃなくて、エニスクさんですので。彼女そんなに悪い人じゃ無かったでしょ?」

「ええ。私には勿体なき待遇で、身を置かせて頂きました。仕えるとしたらお嬢様より、貴方様か、エニスク様の方が宜しいです。だが私の気持ちなんて些末なこと。問題は娘と真理様がどう思っているかなのです。お気遣いありがとうございます」

 ルガマーテはそう言って定則に深く会釈する。そして背後のエニスクに、了承の意を伝えた。


「それは……ええの……ええのぉ! 儂は出世したいんじゃ! 褒められたいんじゃ! 皆に認められたいんじゃ! そうして全てを見返してやるんじゃ! ようしそうなれば善は急げ! ガンギマリ、貴様からはこれ以上何も求めん! 儂は契約の終了に同意するぞ! さっさと儂を解放しろ!」

 エニスクは歓喜に、大きく腕を振り回した。真理はいつもの笑みに、どこか不満そうなものを滲ませている。彼女は投げやりになるように、手の平をひらひらさせた。


「んじゃ認めるよ、いいっすよ~」

 真理がエニスクの言葉を認めた瞬間、流し台に張られた境界が光り輝き始めた。境界面の色が白から、鮮やかな緑へと変貌していく。水面から突き出るエニスクの脚から透明なヴェールが剥がれたかと思うと、元の姿を取り戻すように少しずつ縮んでいった。やがて人と同じくらいの太さになると、洗面台の縁を掴んで、身体が境界の外へと出てきた。


「ふひぃ~久方ぶりの娑婆じゃあ~」

 出てきたのは、大柄な女性だった。

 定則が見上げるほどの背丈を持ち、恵まれた体躯には肉がしっかりとのっている。服は纏っておらず、代わりに要部が獣毛で覆われていた。犬の亜人なのだろうか。頭には獣の耳がピンと天を刺し、四肢の先端は獣のそれだった。

 エニスクが鋭い眼光を放つ目を、素早く周囲に走らせた。そして獣の前脚で器用に指を立てると、その場にいる人間を一人ずつ指した。


「どれがガンギマリじゃ?」

 さっと真理が手を挙げる。

「良く分かった。儂の半径三メートル内に入るでないぞ……残ったのは執事と、ボルゴ族の女か。とすると、お主が常盤定則か! おうおう! 今があるのはお主がいたおかげじゃあ。是非とも礼を――」

 エニスクは定則を見ると破顔する。そして大手を振りながら、境界から出した脚を居間へと踏み入れた。

 瞬間バランスを崩して、床の下に消えていった。流し台の下には、彼女が怒り任せに開けた穴があった。


 しばらく場に沈黙が満ちる。

「旦那は私ンだ!」

 イエナが突然咆えて、机をひっくり返す。それを穴の上にずらして、蓋をしようとした。

「これ以上荒らすんじゃねぇ!」

 定則はイエナの後頭部を、手の平ではたいた。

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